シモン・ド・モンフォール
シモン・ド・モンフォール ©Public Domain

シモン・ド・モンフォール


シモン・ド・モンフォール( A.D.1208〜A.D.1265)

プランタジネット朝時代の第6代レスター伯。ノルマンディーの名門出身。イギリス出身の母の領地を受け継ぎレスター伯に。はじめはヘンリー3世(イングランド王)に仕えたが、先王の時代に定められたマグナ・カルタを無視した専横ぶりに反発、反抗貴族たちのリーダーとなる。1265年、聖職者と貴族に騎士、都市代表を加えた議会を招集、「下院の創設者」と呼ばれた。

シモン・ド・モンフォール

近代議会の出発点を作る

イギリスの伯領を相続。ヘンリー3世(イングランド王)に重用され、その妹と結婚。のち王の専横に反発する貴族を組織し、王権を制限する「オクスフォード法」を王に認めさせた。王が違約すると挙兵して王を逮捕。貴族以外の層も含む議会を招集し「下院の創設者」とされるが、エドワード1世(イングランド王)の反撃により戦死。

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王を破り、英国初の議会を開く

ノルマンディーの名門出身。イギリス出身の母の領地を受け継ぎレスター伯に。はじめはヘンリー3世(イングランド王)に仕えたが、先王の時代に定められたマグナ・カルタを無視した専横ぶりに反発、反抗貴族たちのリーダーとなる。1265年、聖職者と貴族に騎士、都市代表を加えた議会を招集、「下院の創設者」と呼ばれた。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

イギリスの封建社会と身分制議会

欠地王ジョン(イングランド王)フィリップ2世(フランス王)と争い、ノルマンディーをはじめ大陸領の大半を喪失し(1204)、父王ヘンリー2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命を巡ってインノケンティウス3世(ローマ教皇)と対立して破門され、屈服するという失態を演じた( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)。その後大陸の旧領の回復をはかったが、国内の貴族に軍役を拒否され、さらには彼らの反乱を招くことになった(1215)。これにはロンドン市民も同調したため、ジョン欠地王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。これが、いわゆる大憲章(マグナ・カルタ)である。

大陸領の喪失以来、貴族の間にはイギリス人としての国民感情が芽生えつつあったが、ジョン欠地王の次のヘンリー3世(イングランド王)はフランス貴族を重用するとともに、大陸政策に熱中して国内貴族の不満をかった。また、たびたび大憲章を無視して専制をおこなったため、シモン・ド・モンフォールら貴族の反乱を招き、1265年には従来の聖職者・貴族の集会に州騎士および都市市民の代表を加えた議会を招集することになった。これはイギリス議会の起源とされる。

次のエドワード1世(イングランド王)は、大ブリテン島の統一を目指してまずウェールズを征服、ついでスコットランドの遠征をはかったが、軍費調達の必要から1295年議会を招集した。これには、大貴族や高位聖職者と並んで、各州2名の騎士と各市2名の市民及び下級聖職者の代表も加わっており、模範議会と称された。その後14世紀を通じて、高位聖職者と大貴族、騎士と市民がそれぞれ合同して会議をもつようになり、イギリス議会は上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制議会として成長することになった。

参考 詳説世界史研究

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