シャルル10世(フランス王) Charles X(
A.D.1757〜A.D.1836)
復古王政フランス王(在位1824~30)。フランス革命期より王党派の中心となり、兄ルイ18世(フランス王)の死で即位。絶対王政復活をめざし国民軍を解体、七月勅令で未招集議会解散、選挙法改悪、出版検閲を企図。七月革命を招きイギリスへ亡命。
シャルル10世(フランス王)
フランス王(在位1824~30)。ルイ15世(フランス王)の孫でルイ16世(フランス王)、同18世(フランス王)の弟にあたり、当初アルトア伯として知られる。バスティーユ陥落の直後亡命し、トリノから反革命運動に参加。次いで1814年までドイツ、イギリスに滞在し、王政復古が成るや兄のルイ18世(フランス王)から国王代理官に指名され、ユルトラ(極右王党派)の指導者として活躍。兄の死後フランス王となり(24)、25年ランスでアンシャン=レジーム期の儀式にのっとって戴冠式を挙行、フランス革命期に所有地を政府に没収された亡命貴族を補償するための「十億フラン法」の制定、議会に対する強力な反動的てこ入れなどを行なった。このため各地で自由主義運動が広がり、パリでは L.ティエール、 F.ミニェらが『ナショナル』紙を発行し、学生、小市民層の共和派と自由主義の結集に力を注いだ。このような情勢に議会は解散したが、新選挙は反政府派の勝利となり、国王はこれに対して出版の自由を停止し、選挙法改正をおもな内容とする「七月勅令」を発布した。これを契機に七月革命が起り(30)、シャルルは孫のボルドー公に位を譲りイギリスに亡命。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代国民国家の発展
ウィーン体制
七月革命とその影響
ブルボン家の復活したフランスではルイ18世(フランス王)が即位し、憲章という名称を使った憲法を制定し、市民の選挙権を大幅に制限し、反動的政治を進めた。ついでシャルル10世(フランス王)が即位すると亡命貴族に財産を保証したり、軍隊の統帥権を掌握したりして反動的政治をさらに推し進め、国民の不満を外にそらすためにアルジェリア出兵をおこなった。1830年5月、国王は内閣不信任案を決議した議会を解散したが、7月の選挙では国王による選挙妨害を乗りこえて270対145で国王反対派が多数を占めたので、召集前に解散命令を出し、選挙結果を無視し、さらに出版に厳重な統制を加えた。このため市民は7月27日にパリにおいて決起し、「栄光の3日間」といわれる戦闘がおこなわれて、国王側は敗北した。革命派内部では共和派と立憲王政派との対立があり、その妥協策として自由主義者として知られていたオルレアン家のルイ=フィリップが国王(「フランス国民の王」)となり、やや緩和された制限選挙制の立憲君主政が成立した。これを七月王政という。