シャープール1世 ウァレリアヌス
降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール1世。ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像より @ファイル:Bas relief nagsh-e-rostam al.jpg – Wikipedia
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シャープール1世 Shapur (?〜272年頃)

ササン朝ペルシア第2代王(「イラン人および非イラン人の諸王の王」)(在位241頃〜272頃)。ローマと戦って勝利し、ローマ皇帝ウァレリアヌスを生け捕り、捕虜にしたローマ戦士に労役を与えた。

シャープール1世

ササン朝第2代の王(在位241頃〜272頃)。西方ではローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とし、東方ではクシャーナ朝を破り領土を拡大した。「イラン人および非イラン人の諸王の王」という、後代に伝わる伝統的な称号をはじめて使用した。

ローマ軍を破り残虐な行為に及ぶ

強力な軍隊を誇ったシャープール1世は、ローマ(軍人皇帝時代)の東国境を騒がせた。属州シリアを侵略し、首都アンティオキアなど主要都市を略奪したのだ。ピリップス・アラブス帝には屈辱的な賠償金を払わせ、その15年後、遠征におもむいたウァレリアヌス帝を生け捕りにした。同時に、元老院議員や官僚、親衛隊など、ローマの戦士約1万人を捕虜にし、国内のインフラ整備に使役した。シャープール1世はウァレリアヌスを四つん這いにし、乗馬の踏み台にするなど、奴隷のごとく扱った。また彼の死後、皮膚を剥がして赤く染め、見せしめに神殿に飾るなど、残虐な仕打ちをした。やがて、ローマの同盟国パルミアのオデナトゥス王に敗れ撤退する。
シャープール1世
降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール1世。ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像より @ファイル:Bas relief nagsh-e-rostam al.jpg – Wikipedia

イランの巨岩遺跡ナクシェ・ロスタムには、エデッサの戦いで勝者となったシャープール1世(右)と、降伏したローマ皇帝ウァレリアヌス帝(左)の姿が刻まれている。

略年表

  • 生年不詳 ペルシアに生まれる
  • 241年 父王アルダシールの死去により即位
  • 242年 マニ(マニ教)と会見する
  • 243年 ローマ軍に対する戦い・ローマ軍が敗北
  • 253年頃 バルバリッソスの戦いでローマ帝国軍を降す
  • 253/256年 アンティオキアを占領
  • 260年 エデッサの戦いでローマを破りウァレリアヌス帝を捕虜とする
  • 272年 死亡
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ローマ皇帝を捕らえる

イラン・ササン朝第2代の王。クシャーナ朝を破り、ローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。

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オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

ササン朝

ササン朝(224年〜651年)は、アルダシール1世パルティアを倒してクテシフォンを都に新しく開いた王朝である。

アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近からおこって、農耕イラン人を勢力基盤としていた。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立をはかった。その目標を実現に移したのがシャープール1世で、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、東方ではクシャーナ朝滅ぼしてインダス川西岸まで領土を広げ、西方ではシリアに遠征してローマ軍を破り、260年には軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。

  • アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近からおこって、農耕イラン人を勢力基盤としていた。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立をはかった。その目標を実現に移したのがシャープール1世で、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、東方ではクシャーナ朝滅ぼしてインダス川西岸まで領土を広げ、西方ではシリアに遠征してローマ軍を破り、260年には軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。
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