ジェームズ2世(イングランド王)
ジェームズ2世(イングランド王)(ピーター・レリー画)©Public Domain

ジェームズ2世(イングランド王)


ジェームズ2世(イングランド王)( A.D.1633〜A.D.1701)

王政復古期ステュアート朝イングランド王(位1685年2月6日 - 1688年12月1日)スコットランド王、アイルランド王。即位すると専制政治を開始、「審査法」を無視してカトリックを擁護したため議会はメアリー2世とその夫ウィリアム3世を招聘。ジェームズ2世はルイ14世のフランスへ亡命した(名誉革命)。

ジェームズ2世(イングランド王)

専制政治の結果名誉革命により国外追放に

兄はチャールズ2世(イングランド王)王政復古で亡命先から帰国し、海軍総司令官になった。英蘭戦争に勝利するも、カトリックであると公言したため、「審査法」により解任。嫡子のない兄の死後、ジェームズ2世(イングランド王)として王位に就くとき、議会はそれを容認するトーリ党と反対するホイッグ党の真っ二つに分かれ対立した。即位するなりジェームズ2世は専制政治を開始、「審査法」を無視してカトリックを擁護した。これに対し、議会はオランダ統領オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世(イングランド王))を招聘しょうへいすることに決定した。ジェームズ2世(イングランド王)は味方もなくフランスのルイ14世(フランス王)のもとへ亡命した。混乱も流血もない政変は誇りとされ、これは名誉革命と呼ばれる。

ジェームズ2世の王位継承を認めるトーリ党とは、ホイッグ党がつけたあだ名で「アイルランドの無法者」の意味。反対するホイッグ党とは、トーリ党がつけたあだ名で「スコットランドの謀反人」という意味だった。
ジェームズ2世(イングランド王)
ジェームズ2世(イングランド王)(ゴドフリー・ネラー画/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)©Public Domain

オランダ統領オラニエ公ウィレムがイギリスに上陸すると、戦わずにフランスに亡命したジェームズ2世(イングランド王)。

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反動政策により名誉革命を招く

チャールズ2世(イングランド王)の弟で、1685年に即位。宗教裁判所の復活をはじめ一連の反動的な政策を展開した。名誉革命が起きると、フランスに亡命。ルイ14世(フランス王)の援助のもと、再起を図るべくアイルランドに上陸するが、ボイン川の戦いでウィリアム3世(イングランド王)に敗れた。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

イギリス立憲政治の発達

王政復古から名誉革命へ

しかし、次のジェームズ2世(イングランド王)(位1685〜1688)の政治も専制的であり、カトリックの復活を意図しているような疑惑もあったため、1688年、議会は一致してジェームズ2世をフランスに追放し、かわってメアリー2世(イングランド女王)(位1689〜1694)とその夫でオランダの総督ウィリアム3世(イングランド王)(位1689〜1702)を共同統治の王として迎えた。両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布した。これによって、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。この革命を名誉革命という。この革命によって確立した体制は、以後、1世紀以上にわたってイギリスの社会や政治のあり方を決めることになる。さきのピューリタン革命と合わせて、「イギリス革命(市民革命)」と呼ぶこともある。

権利の章典(1689年)

1. 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止したり、法の施行を停止したりする権力があるという主張は、違法である。

4. 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期間にわたり、また議会が承認するのと異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは、違法である。

6. 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴収し維持することは、法に反する。

8. 国会議員の選挙は自由でなければならない。

9. 議会での言論の自由や討論や議事手続は、議会以外のいかなる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。

13. また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。

王政復古から名誉革命へ – 世界の歴史まっぷ

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子女

最初の妃アン・ハイドとの間に8人の子を儲けたが、2人の娘を除いて夭折した。

  • チャールズ(1660年 – 1661年) – ケンブリッジ公
  • メアリー2世(イングランド女王)(1662年 – 1694年) – イングランド・スコットランド・アイルランド女王、オランダ統領オラニエ公ウィレムと結婚
  • ジェームズ(1663年 – 1667年) – ケンブリッジ公
  • アン(イギリス女王)(1665年 – 1714年) – イングランド・スコットランド・アイルランド女王、のちグレートブリテン女王、デンマーク・ノルウェー王子ジョージと結婚
  • チャールズ(1666年 – 1667年) – ケンダル公
  • エドガー(1667年 – 1671年) – ケンブリッジ公
  • ヘンリエッタ(1669年)
  • キャサリン(1671年)

2番目の妃メアリー・オブ・モデナとの間に7人の子を儲けたが、2人の子を除いて夭折した。

  • キャサリン・ローラ(1675年 – 1676年)
  • イザベラ(1676年 – 1681年)
  • チャールズ(1677年) – ケンブリッジ公
  • エリザベス(1678年)
  • シャーロット・メアリー(1682年)
  • ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(1688年 – 1766年) – イングランド王位僭称者、「老僭王」
  • ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート(1692年 – 1712年)

参考 Wikipedia

家系図

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ジェームズ1世(イングランド王)
 
アン・オブ・デンマーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
 
チャールズ1世(イングランド王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
③チャールズ2世(イングランド王)
 
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
 
オラニエ公ウィレム2世
(オランダ総督)
 
④ジェームズ2世(イングランド王)
 
アン・ハイド
 
ヘンリエッタ・アン
 
オルレアン公フィリップ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⑤ウィリアム3世(イングランド王)
 
⑤メアリー2世(イングランド女王)
 
ジェームズ(老僭王)
 
⑥アン(イギリス女王)
 
ジョージ(カンバーランド公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ(若僭王)
 
ヘンリー・ベネディクト・ステュアート
 
夭逝
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