ジャックリーの乱 (1358年)
中世の封建制の危機に際して、領主の中には封建的支配を復活しようとして(封建反動)農民一揆を招いた。百年戦争初期の1358年、戦乱による荒廃と重税に苦しめられた北フランスの農民と手工業者らは、ギヨーム・カルルを主導者に蜂起し、地区ごとに組織を作って領主の城館を襲撃した(ジャックリーの乱)。パリ市内でもエティエンヌ・マルセルを中心とする市民の反乱がおこっており、それと呼応するかのように、ジャックリーの乱はパリ一帯からシャンパーニュ・ピカルディ地方に広まった。だが、ギヨーム・カルルが捕らえられ処刑されると、反乱は急速に勢いを失い鎮圧された。
ジャックリーの乱
反乱データ
年月日:1358年 | |
場所:ピカルディ、ノルマンディー、シャンパーニュなどフランス北東部 | |
結果:フランス軍の勝利。フランス軍の農民への警戒 | |
交戦勢力 | |
フランス軍 | 農民反乱軍 |
指導者 | |
カルロス2世(ナバラ王) | ギヨーム・カルル |
戦力 | |
1,500 | 4,000 |
損害 | |
軽微 | 全滅 |
概要
反乱の名前は当時の農民を貴族が指すときの蔑称ジャック(Jacques)に由来するとされ、それは当時の農民が短い胴衣jaques を着ていたことに由来する。当時の年代記作者によって、当初、指導者名がジャック・ボノムと誤って伝えられたことに由来するという異説もある。
当時のフランス王国は、ペストや貨幣の改悪、百年戦争のポアティエの戦いでの敗北による王権の失墜に苦しみ、農村にいたっては傭兵団により略奪され、農民を守るべき貴族は重税を課していた。
農民たちは、我慢の限界に達していたが、1358年5月末にサン=ルー=デスラン村 (Saint-Leu-d’Esserent) の村人たちが衝動的に徒党を組んで領主の館を襲撃し一族郎党を殺害、破壊や略奪行為に及んだ。
これをきっかけとして始まり、ピカルディ、ノルマンディー、シャンパーニュなどフランス北東部で広範に広がり叛乱した農民たちはそれぞれに指導者を選んで貴族、騎士、郷士を標的にして殺害し邸宅、城を破壊、略奪した。農民軍のスローガンは、「旦那たちを倒せ」であり領主は殺し、女は凌辱、子供は串刺しにして丸焼きにしたともいわれる。
その農民軍を統率するようになったのはギヨーム・カルルであった。
カルルは、パリで叛乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの共闘を目指したが、6月10日にカルロス2世(ナバラ王)の貴族軍に素人の烏合の衆でしかない農民軍は、メロの戦いで敗れた。カルルは休戦交渉に赴いたところを捕らえられ拷問されて処刑された。反乱軍の農民たちは皆殺しにされ、反乱がおきた地域への貴族側の報復は徹底され農村は荒廃した。
その残虐さの記憶は、人々の心に刻まれ再発の恐怖は近世までフランスの農村にあった。近代になると再評価する者も現れた。すなわち領主による農民を保護する機能の低下が反乱の底流として指摘できよう。すなわちこの乱は農民の自己の共同体慣行と文化、日常的生存を守ろうとする自衛の蜂起であり、領主権力の衰退と農村共同体の自立(成長)の反映と見ることができる。