ジャン=ポール・マラー Jean-Paul Marat (A.D.1743〜A.D.1793) フランス革命下層民の立場にたつ山岳派の革命家。国民公会で指導権を握りジロンド派追放を主導した。そのためジロンド派支持者のシャルロット=コルデに刺殺された。
ジャン=ポール・マラー
下層民の立場にたつ山岳派の革命家。国民公会で指導権を握りジロンド派追放を主導した。そのためジロンド派支持者のシャルロット=コルデに刺殺された。参考 世界史用語集
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
立憲議会の成立と戦争の開始
1791年10月、新憲法による選挙で一院制の立法議会が成立した。立法議会では右翼に立憲君主派のフイヤン派が、左翼に共和政を主張するジャコバン派が陣どっていた。多数の中間派は情勢に左右された。フイヤン=クラブを背景とするフイヤン派はラ=ファイエットやバルナーヴ(1761〜93)らが指導していた。ジャコバン修道院に本拠をおくジャコバン派には小市民を支持基盤とする左派と、中産市民層を代表する穏和派がいた。ジャン=ポール・マラー(1743〜93)・ダントン(1759〜94)・ロベスピエール(1758〜94)らに指導される左派は議会の最左翼の高い所の議席を占めていたので、モンターニュ派(山岳党)と呼ばれた。穏和派はジロンド県出身議員が多く、のちジロンド派 としてジャコバン派から分離し、両者は対立するようになった。フイヤン派:1791年、ジャコバン=クラブから分離した立憲君主派が、パリのフイヤン修道院に集まりつくったクラプのメンパー。ラ=ファイエットやバルナーヴらが所属していた。
ジロンド派:主として商工業ブルジョワジーを代表する党派。指導者にジロンド県選出の議員が多くいたことからこの名で呼ばれる。ブリッソ・コンドルセ・ヴェルニョなどが所属していた。
モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
参考
マラーの死

歴史画の傑作とされる「マラーの死」。ジャコバン派の革命家マラーが、ジロンド派の女性により暗殺された場面が描かれている。
持病の皮膚病が悪化。活動不能となり自宅にこもって1日中入浴して療養していた。1793年、面会に来たジロンド派支持者のシャルロット・コルデーに暗殺された。暗殺後、現場で画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描いている。ジャコバン派の盟友マクシミリアン・ロベスピエールによって神格化され、ジロンド派への弾圧強化の口実となった。遺体は「革命の殉教者」としてパンテオンに埋葬されたがテルミドールのクーデター後に取り除かれた。
参考: Wikipedia