ジョン(イングランド王)
A.D.1199〜A.D.1216
プランタジネット朝第3代イングランド王(在位1199〜1216)。ヘンリー2世(イングランド王)の未子。リチャード1世(イングランド王)の弟。失地王。欠地王。対仏戦に敗れ、大陸領土をほとんど失う。多額の戦費による課税に不満を持つ貴族たちの反抗を受け、「マグナ・カルタ」を突きつけられた。
ジョン(イングランド王) 欠地王
マグナ・カルタを承認した欠地王
ヘンリ2世の未子。「欠地王」と呼ばれる。利己的で残虐だったが、策略により王位を得る。対仏戦に敗れ、大陸領土をほとんど失う。教皇に破門され、のち和解。多額の戦費による課税に不満を持つ貴族たちの反抗を受け、「マグナ・カルタ」を突きつけられた。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ世界の成立
教会の権威
封建社会の成立過程をつうじて、修道士たちによる民衆への教化が進み、ローマ・カトリック教会は、次第にその精神権威を高めていった。同時に、国王や諸侯から土地の寄進を受け、政治的にも世俗諸侯と並ぶ勢力、すなわち聖界諸侯として各地に君臨した。その結果、聖職者の身分的組織も拡大・整備され、ローマ教皇を頂点に、大司教・司教・司祭・修道院長などの聖職階層制(ヒエラルヒー)が成立するとともに、信仰や習慣、教会の規律などに関する問題については、聖職者からなる公会議での決定が最高の権威となった。
クリューニーの改革運動(修道院改革)は、同派の支修道院をつうじて急速にヨーロッパ各地へと波及した。その中でレオ9世(ローマ教皇)は改革派の人物を集めて枢機卿とし、積極的な教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。その結果、1059年枢機卿会議による教皇選出規定が決定され、教皇選挙への皇帝権の介入は排除された。さらにグレゴリウス7世(ローマ教皇)は1075年の「教皇教書」により、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言したが、それは教会政策を帝国統治の基本にするドイツ王(ザーリアー朝)ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)との決定的な対立を引き起こすことになった。いわゆるカノッサ事件(1077)である。
聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝間の対立(叙任権闘争)を集結させたのが、カリストゥス2世(ローマ教皇)とドイツ王ハインリヒ5世(神聖ローマ皇帝)の間のヴォルムス協約(1122)である。
12世紀前半に両者の対立は一応の妥協を見たが、その間、ウルバヌス2世(ローマ教皇)はグレゴリウス改革を継承するとともに、十字軍を宣言して教皇権の強化に努めた。その後の教皇インノケンティウス3世(ローマ教皇)は、ドイツの国王選任問題に介入してオットー4世(神聖ローマ皇帝)を破門、さらにカンタベリ大司教選任問題でジョン(イングランド王)を破門し屈服させるなど勢威を高めた。こうして11世紀末から13世紀初めにかけて、教皇権は絶頂に達した。
西ヨーロッパ中世世界の変容
イギリスの封建社会と身分制議会
系図の全体はこちら 百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図 – 世界の歴史まっぷ
参考 詳説世界史研究
ジョン(イングランド王)が登場する作品
ロビン・フッド
リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。
DVD
キングダム・オブ・ヘブン
キングダム・オブ・ヘブン -Kingdom of Heaven