スキタイ
騎馬の技術を採用し遊牧と結びつけた世界史上最初の騎馬遊牧民。紀元前7世紀頃、南ロシア草原に現れたイラン系の民族で、紀元前6世紀をすぎると、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心に、強大な王国をつくりあげ、アケメネス朝のダレイオス3世やアレクサンドロス3世とも戦い、これを破ったこともあった。
スキタイ
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
スキタイと匈奴
西方から内陸アジアに遊牧民が移り住んだのは、新石器時代以後である。その結果、モンゴル高原から南ロシアにかけての草原地帯は、平和な遊牧民の居住地となった。遊牧という生活様式と騎馬という習慣は、はじめから結びついていたものではなかった。馬に乗るには、手綱、はみ、くつわが少なくとも必要である。そしてこの騎馬の技術を採用し遊牧と結びつけた民族が、世界市場最初の騎馬遊牧民であるスキタイであった。
彼らは紀元前7世紀頃、南ロシア草原に現れたイラン系の民族である。紀元前6世紀をすぎると、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心に、強大な王国をつくりあげ、アケメネス朝のダレイオス3世やアレクサンドロス3世とも戦い、これを破ったこともあった。多くの家畜を追って、季節的に一定の地域での移動をくりかえしていた平和な遊牧民は、スキタイから騎馬の技術を伝えられると、騎馬遊牧民へと成長していった。
髑髏の盃と頭皮(スキタイ)
ギリシアのヘロドトスは、スキタイの風習について次のように記している。
「スキタイは、敵の将の首を取り、その頭蓋骨で酒盃をつくり、 外側に牛の皮を張り、さらに内部を金箔でおおった。」また、頭の皮でハンカチをつくり、その数を自慢し、なおその皮で衣服もつくったという。
オリエントと地中海世界
古代オリエント
バクトリアとパルティア
バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。この王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えた。その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになった。
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
西北インドの情勢
紀元前1世紀に入りギリシア人勢力が衰えたころ、新たに中央アジア系の遊牧民であるサカ族(インド・スキタイ族)とパルティア族の侵入が相次ぎ、さらに1世紀の後半にはクシャーナ族が南下して西北インドを支配下においた。
諸地域世界の交流
陸と海のネットワーク
草原の道(ステップ・ルート)
緑線が草原の道
南ロシアの草原地帯から東に向かい、カザフやジュンガル盆地の草原地帯、アルタイ山麓を経てモンゴル高原に入り、中国の頂上地帯にいたる交通路を草原の道と呼ぶ。ここを舞台に騎馬遊牧民が興亡し、その活発な活動によりさまざまな文化が伝播していった。騎馬遊牧民のはじめは紀元前7世紀のスキタイ人( スキタイと匈奴 – 世界の歴史まっぷ)であった。
彼らはギリシア・イランとの交渉によって金属文化を受け入れ、独特の騎馬文化を形成した。それまで遊牧を主に、平和であった草原の民は、スキタイ文化を受け入れてから戦闘的となり、騎馬による機動力と武力をもって各地を侵略するようになった。