スペイン継承戦争( A.D.1701〜A.D.1713)
スペインの王位継承をめぐり、イギリス、フランスの対抗を主軸として行われた国際戦争。ルイ14世が孫をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリア、オランダと対フランス同盟を結びフランスに宣戦布告した。ユトレヒト条約、ラシュタット条約で講和し、イギリスは最大の受益国となり、世界に海洋植民国家としての地位を確立した。
スペイン継承戦争
戦争データ
年月日:1701年〜1714年 | |
場所:ヨーロッパ、北アメリカ | |
結果:ユトレヒト条約、ラシュタット条約の締結 | |
交戦勢力 | |
ハプスブルク帝国 神聖ローマ帝国 イングランド王国 グレートブリテン王国 ネーデルラント連邦共和国 プロイセン王国 ポルトガル王国 サヴォイア公国 カタルーニャ君主国 アラゴン王国 バレンシア王国 |
フランス王国 スペイン帝国 カスティーリャ王国 ナバラ バスク バイエルン選帝侯国 ハンガリー人反乱者 |
指導者 | |
カール6世(神聖ローマ皇帝) オイゲン・フォン・ザヴォイエン グイード・フォン・シュターレンベルク ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン ルートヴィヒ・ヴィルヘルム(バーデン=バーデン辺境伯) ジョージ1世(イギリス王) ジョン・チャーチル(初代マールバラ公) ヘンリー・デ・マシュー(ゴールウェイ伯) チャールズ・モードント(第3代ピーターバラ伯) ジェームズ・スタンホープ(初代スタンホープ伯) ジェームズ・バトラー(第2代オーモンド公) ジョージ・ルーク ヘンドリック・ファン・ナッサウ=アウウェルケルク アーノルド・ヴァン・ケッペル(初代アルベマール伯) レオポルト1世(アンハルト=デッサウ侯) 第2代ミナス侯アントニオ・ルイス・デ・ソーサ ヴィットーリオ・アメデーオ2世 |
ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール フランソワ・ド・ヌフヴィル(ヴィルロワ公) ニコラ・カティナ カミーユ・ドスタン(タラール公) フェルディナン・ド・マルサン ルネ・ド・フルーレ(テッセ伯) ジェームズ・フィッツジェームズ(初代ベリック公) ルイ(ブルゴーニュ公) フィリップ2世(オルレアン公) フェリペ5世(スペイン王) マクシミリアン2世エマヌエル(バイエルン選帝侯) ラーコーツィ・フェレンツ2世 |
戦力 | |
232,000 | フランス 255,000 スペイン 歩兵13,000 騎兵50,000 |
参考 Wikipedia
概要
1701~1714年スペインの王位継承をめぐり、イギリス、フランスの対抗を主軸として行われた国際戦争。ハプスブルク家のカルロス2世(スペイン王)は病弱で嗣子がなく、ルイ14世(フランス王)の孫アンジュー公フィリップ(のちのフェリペ5世(スペイン王))を相続者に定めた。フランスによるスペイン領アメリカ植民地貿易独占を恐れたイギリスは、オランダおよび継承権をもつオーストリアと同盟しフランスに宣戦した。同盟側にはプロシア、ポルトガルが、フランス側にはバイエルンが参加。戦闘はイタリア、ネーデルラント、ドイツなどのヨーロッパ各地、カナダのフランス植民地で行われ(アン女王戦争)、同盟側が一貫して優位に立った。 1711年にオーストリアでヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝)が没してスペイン王に推されていたカール6世(神聖ローマ皇帝)が帝位についたため講和の機運が高まり、1713年4月11日ユトレヒト条約、翌1714年3月6日ラスタット条約が成立して戦争は終った。これらの条約により、スペイン王としてアンジュー公フィリップが承認され、スペインはイギリスにジブラルタル、ミノルカ、アフリカ奴隷の売込権(アシエント)を、オーストリアにネーデルラント、ミラノ、サルジニアを、サボイにシチリア島を割譲した。この条約によってイギリスは最大の受益国となり、世界に海洋植民国家としての地位を確立した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
和平
ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝)が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・カール6世(神聖ローマ皇帝)として即位すると、イギリスはカール6世(神聖ローマ皇帝)のスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世(スペイン王)のスペイン王退位要求に消極的となった。
茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン
1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世(スペイン王)は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ドゥナの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これにより、スペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。
1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国を、サヴォイア公国にシチリア王国(後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとミノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを獲得し、反フランス同盟は代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認した。そして翌1714年にフランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた。
戦争終結の同年にアン(イギリス女王)が没し、ステュアート朝は断絶、又従兄のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世(イギリス王)として即位してハノーヴァー朝が成立すると、ホイッグ党がジョージ1世(イギリス王)の信任を背景に復帰、対するトーリー党は王位継承問題に伴う内部分裂と、和睦交渉で大陸の同盟国を見捨てて単独交渉に走ったことが仇となり、中心人物のロバート・ハーレー(初代オックスフォード=モーティマー伯)らは失脚しホイッグ党が復権、ジャコバイト蜂起も鎮圧されホイッグ党の政権は磐石となり、マールバラ公も名誉回復を果たした。1715年にルイ14世(フランス王)も死去して曾孫のルイ15世(フランス王)が即位、政権交代したイギリスとフランスは協調関係を築いていった。
スペイン継承戦争は、ジョン・チャーチル(初代マールバラ公)やオイゲン・フォン・ザヴォイエンの活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世(スペイン王)のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世(フランス王)のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。
参考 Wikipedia