セーヴル条約 A.D.1920〜
第一次大戦後の連合国とオスマン帝国の講和条約。イラク・パレスチナ・シリア全域とアラビア半島の放棄、イスタンブルと隣接地以外のギリシアへの割譲、治外法権の存続、財政の連合国共同管理などを定めた。ケマル=アタテュルク率いるアンカラ政府は受諾を拒否し、ギリシア=トルコ戦争の勝利後、1923年にローザンヌ条約を結び、セーヴル条約 を破棄した。
セーヴル条約
- 連合国 とオスマン帝国の講和条約。イラク・パレスチナ・シリア全域とアラビア半島の放棄、イスタンブルと隣接地以外のギリシアへの割譲、治外法権の存続、財政の連合国共同管理などを定めた。ケマル=アタテュルク率いるアンカラ政府は受諾を拒否し、ギリシア=トルコ戦争の勝利後、1923年にローザンヌ条約を結び、セーヴル条約 を破棄した。
- 連合国 とオスマン帝国の講和条約。内容は、領土の大幅割譲、軍備の縮小、治外法権存続など屈辱的なものであり、トルコ革命を引き起こす要因ともなった。
二つの世界大戦
ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
パリ講和会議 とヴェルサイユ条約
他の同盟側の敗戦国との講和条約もパリ周辺の宮殿・城館で調印され、ほぼヴェルサイユ条約に準じた内容となった。対オーストリア講和条約(サン=ジェルマン条約 St.Germain )は1919年9月に結ばれ、オーストリアは戦前とくらべて面積・人口ともに4分の1に縮小され、ドイツ人のみの小共和国となった。ブルガリアとは19年11月ヌイイ条約 Neuilly が、ハンガリーとは1920年6月トリアノン条約 Trianon がそれぞれ調印され、ハンガリーは歴史的領土と人口の過半を失った。オスマン帝国の分割を内容とするセーヴル講和条約 Sèvres は1920年8月に調印された。
- パリ講和会議 とヴェルサイユ条約 | 世界の歴史まっぷ
修正主義の台頭
トルコでは講和条約調印時にアンカラに本拠をおいていたケマルらの勢力が条約をうけ入れを拒否し、一方戦勝国となったギリシアはイズミル izmir を拠点に小アジアでの勢力拡大を企図して、軍事衝突にいたった(ギリシア=トルコ戦争)。1922年ギリシアが敗北してイズミルを放棄し小アジアから撤退すると、トルコは連合国 と交渉し、1923年7月セーヴル条約 にかわるローザンヌ条約 Lausanne を改めて結び、トルコ・ギリシア間の国境が決定された。