ゼーランディア城 (安平古堡)
台湾で最も古い城堡。オランダ東インド会社が中国貿易のため、1624年に台湾西岸の台南の外港安平に築いて貿易の拠点とした。 1661年に中国人の鄭成功の軍が占領し、鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用した。
ゼーランディア城
諸地域世界の交流

海の道の発展
世界の一体化と銀
オランダは1624年以後、台湾南部にゼーランディア城(安平古堡)を築いて貿易の拠点とし、中国人の鄭芝竜と協力して日本貿易に参加する他の勢力と対立した。
鄭芝竜:中国人の武装商人。平戸の田川氏との間に1624年に生まれたのが鄭成功である。鄭成功は清に滅ぼされた明の復興を進める中で、1662年にゼーランディア城を陥落させてオランダを台湾から追放した。
その後、キリスト教宣教師への徳川幕府の弾圧によりポルトガル船はしだいに排除され、長崎での貿易は中国船とオランダ船に限られるようになった。
1635年に日本人の海外渡航・帰国を禁止し、1639年にポルトガル船の来航を禁止した上で、1641年にオランダの商館を長崎の出島に移した。この時点を一般に、いわゆる「鎖国」の完成とする。
歴史
- 1622年、オランダ東インド会社はマカオの占領を図った。しかし、現地のポルトガル人が抵抗したため断念、澎湖島を占拠して東アジア貿易の拠点を築こうとした。しかし、この地も明朝によって撤去が求められたため、1623年、オランダは台湾に進出し一鯤身に簡易な城砦を築城した。これが安平古堡の前身である。
- 1624年に明軍と8ヶ月に及ぶ衝突を繰り返し、その結果オランダと明の間で講和が成立、澎湖の要塞と砲台を破棄する代わりに、オランダが台湾に進出する事を認める内容であった。台湾にオランダ勢力が到着すると、既存の簡易な城砦を再建し「奧倫治城」 (Fort Orange) と命名、1627年に「熱蘭遮城」(Fort Zeelandia) と改名され建設が続けられ、1632年に第1期工事が完了した。当時、この城砦は台湾に於けるオランダ勢力の中枢として、行政及び貿易を統括していた。
- 1662年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功は、新たな拠点を構築するために台湾を攻撃、既存のオランダ人勢力と対立しゼーランディア城を攻撃した。その結果オランダ人勢力は台湾から一掃され、台湾史上初めて漢人による政権が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった。
- 1683年、清による台湾統治が開始されると、政治の中心は城内に移り、安平城は軍装局として用いられ、城砦の重要性は漸次低減、改修が行なわれることなく次第に荒廃していった。
- 1873年、イギリス軍艦の攻撃を受けたが、その際イギリス軍の放った砲弾が城内の火薬庫に命中爆発、甚大な被害を受けた城砦は廃墟と化した。
- 1874年、台湾出兵問題で日本と善後策を協議した沈葆楨は、台湾海防の充実のために安平城城壁を二鯤身に運搬、億載金城(二鯤鯓砲台)建設の資材とした。
参考 Wikipedia