ティトゥス帝 39年12月30日〜81年9月13日
ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌは、ローマ帝国フラウィウス朝第2代皇帝(在位:79年〜81年)。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。
ティトゥス帝
年表
- 39年 ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝第3代皇帝カリグラの治世、ローマで誕生。
- 41年 カリグラが暗殺されカリグラの妻カエソニアと幼い娘ユリア・ドルシッラも殺される。
- 41年 クラウディウスがプラエトリアニに担がれる形でローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝第4代皇帝に就任する。
- 54年 クラウディウスは、妻の小アグリッピナに毒キノコの料理を食べさせられて暗殺される。
- 54年 小アグリッピナの計略によりクラウディウスの継子から養子になっていたネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスがローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝第5代皇帝に就任する。
- 55年 クラウディウスの息子ブリタンニクスがローマ帝国第5代皇帝ネロによって毒殺される。ティトゥスはブリタンニクスと仲がよく、ブリタンニクスが毒殺された時はすぐ隣にいて盛られた毒を少し試し、長い間床に伏せていたという。この事をティトゥスは生涯忘れず、後に皇帝になった時に若くして死んだ旧友の像を建立したと伝えられている。
- 61年 トリブヌス・ミリトゥムに就任し、父ウェスパシアヌスとともにブリタンニアへ赴く。
- 64年 ローマに戻りアレキナ・テルトゥラと結婚するがすぐに死別する。
- 65年 マルキア・フルニッラと再婚する。妻の生家は帝位後継者、後のローマ皇帝ネロの対抗勢力に属しており、元老院議員であったガイウス・カルプルニウス・ピソによるネロの暗殺疑惑事件が発生、この件で妻とは離縁する。
- 66年 ユダヤ属州で大反乱が勃発する(ユダヤ戦争)。
- 67年 クァエストル(財務官)として、父ウェスパシアヌスとユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かう。
- 67年 ガリア・ルグドゥネンシス総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスがガリアでネロに対して反乱を起こし、ガルバを皇帝に擁立したが、 ゲルマニア・スペリオルの軍団を率いるルキウス・ウェルギニウス・ルフスはウィンデクス追討のためにすぐに軍を移動させて反乱を鎮圧、ウィンデクスは自死した。
ヒスパニア・タッラコネンシスの総督セルウィリウス・スルピキウス・ガルバもネロに反旗を翻し、隣のルシタニア総督オトもこれに加わった。 - 68年 元老院より「国家の敵」とされ、ネロはガルバがローマに入城する前に自死し、ユリウス・クラウディウス朝は絶えた。
- 68年 ガルバはローマ帝国四皇帝の年初代皇帝に就任する。
- 69年 ルシタニア(現ポルトガル)の名総督として人気があったオトは、ガルバとは親戚関係にあり、子供のないガルバが後継者に自分を選ぶものと期待していたが、ガルバはピソを後継者に指名したため、ガルバとピソを暗殺し、ローマ帝国四皇帝の年第2代皇帝につく。
- 69年 ゲルマニアで叛乱した将軍ウィテリウスはオトの帝位を認めずローマへ侵攻、オトの軍を破るとオトは自害し、3ヶ月の治世を終えた。
- 69年 元老院はウィテッリウスの帝位を承認し、ウィッテリウスはローマ帝国四皇帝の年第3代皇帝となる。ゲルマニア軍に担がれただけの皇帝であったため政策は無く、贅沢三昧でわずか数ヶ月で9億セステルティウス(日本円にして約2250億円)を費やすなど市民の支持を得ることはできなかった。
- 69年 ティトゥスの父ウェスパシアヌスは、ウィテッリウスを破り政情を安定させて国四皇帝の年を終結させる。
- 69年 父ウェスパシアヌスがローマ帝国フラウィウス朝初代皇帝につくと、ティトゥスはユダヤ戦争のイェルサレム攻略の司令官となる。
- 70年 ティトゥスはイェルサレムを占領する。
- 73年 抵抗を続けたマサダを陥落させユダヤ人の反乱を平定する。(ユダヤ戦争)
- 73年 ローマで凱旋式を挙げる。この凱旋式の様子はフォルム・ロマヌムの東端にティトゥスの凱旋門のレリーフに残っている。
- 74年 父王ウェスパシアヌスと共同統治し、プラエフェクトゥス・プラエトリオ及びコンスルを数回務める。
- 79年 父王ウェスパシアヌスが死亡すると後をついでローマ帝国フラウィウス朝第2代皇帝となる。
- 79年 ヴェスヴィオ火山が噴火し、ナポリ近郊の都市ポンペイが壊滅する。
- 81年 ローマが3日間延焼し続ける大火災が発生し、ティトゥスは精力的に被災地の救済にあたっている最中に熱病で死亡する。
ユリウス・クラウディウス朝家系図
ティトゥスが登場する作品
ザ・ローマ 帝国の興亡 第四話 ユダヤ戦争