ティルジット条約 (1807.7)
1807年7月ナポレオン1世とフリードリヒ・ウィルヘルム3世(プロイセン王)およびアレクサンドル1世(ロシア皇帝)とが、東プロイセンのティルジットで結んだ和平条約。戦いに勝利したナポレオンは、ティルジットで屈辱的な内容の講和を押しつけた。とくにプロイセンは領土の半分を奪われ、莫大な賠償金と軍備制限を課せられた。ポーランドにはワルシャワ大公国がたてたれた。
ティルジット条約
1807年7月ナポレオン1世とプロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム3世およびロシア皇帝アレクサンドル1世とが、東プロシアのティルジットで結んだ和平条約。イェナ=アウエルシュテットの戦い、アイラウの戦いでプロシア、ロシアを破ったナポレオンは、この条約によって大陸制圧をほぼ完成した。おもな内容は、(1)プロシア領ポーランドにワルシャワ公国、エルベ川左岸にウェストファリア王国を創設、(2)ダンチヒを自由市とする、(3)プロシア軍隊を4万2000に制限、償金の支払い、その完済までのフランス軍の駐屯、(4)ほかにロシアのフランスへの協力を求めた付帯秘密条約など。この結果プロシアの領土、人口は半減された。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
ティルジット条約とロシア・プロイセン:ティルジットを流れるネマン川の筏の上で、ロシア皇帝アレクサンドル1世は1807年にナポレオンと会談をおこなった。この風刺画では、ナポレオンに心からの抱擁をうけているアレクサンドル1世が、「しめつけられて死においやられる、筏もものすごい早さで沈んでいく」といっている。王冠を流され筏にすがるプロイセン王は、回復することは難しいと恐れている。ティルジット条約で、ロシアは大封鎖令に参加することとなり、プロイセンは国土の約半分を失ったうえ、多額の賠償金を支払うこととなった。
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
帝政の成立と大陸制覇
イタリア・オランダを支配下においたナポレオンは、1806年南ドイツ、ライン右岸のドイツの16の邦をまとめてナポレオンを盟主とするライン同盟をつくらせた。オーストリア=プルスブルク家の皇帝をいただく神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
プロイセンはナポレオンに脅威を感じ、ロシアと同盟してフランスに宣戦した。ナポレオンはイエナ・アイラウでプロイセン軍を、アイラウ・フリースランドでロシア軍を破り、1807年ティルジット Tilsit で両国に屈辱的な内容の講和を押しつけた(ティルジット条約)。とくにプロイセンは領土の半分を奪われ、莫大な賠償金と軍備制限を課せられた。ポーランドにはワルシャワ大公国がたてたれた。