ドラヴィダ人
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ドラヴィダ人

半島の南端部には、アショーカ王の時代からドラヴィダ人の諸国が存在していた。いずれの王朝も独自の文化を維持するとともに、北インドの文化や制度を導入して国力の充実に努め、対ローマ貿易にも積極的であった。ドラヴィダ系諸語のひとつタミル語の文学作品には、西暦紀元の初期にまでさかのぼるものもある(シャンガム文学)。

ドラヴィダ人

アジア・アメリカの古代文明

アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ

インドの古代文明

南アジアの風土と民族
地理的に孤立しているかにみえるこの亜大陸にも、先史時代より、山と海という自然の障害を超えて様々な民族が移住してきた。今日この地域の複雑な民族構成はその結果である。そうした民族移動の道としてもっとも重要なものは、中央アジア・西アジアと西北インドを結ぶいくつもの峠道であった。カイバル峠超えの道は、そのなかでも重要なものである。
南インドを中心に分布するドラヴィダ人も、こうした外来民族のひとつであり、一説によると紀元前3500年ころ西方からインド亜大陸に入り、旧石器・新石器文化を残した先住民を圧倒しつつ、しだいに南方へと居住域を広げたとみられている。アーリヤ人の来住は紀元前1500年ころから始まり、その後も中・小の規模の民族移動が続いた。
インドの古代文明
ドラヴィダ語族分布図(2007年) @Wikipedia

南アジアの風土と民族 – 世界の歴史まっぷ

南インドの諸国

半島の南端部には、アショーカ王の時代からドラヴィダ人の諸国が存在していた。いずれの王朝も独自の文化を維持するとともに、北インドの文化や制度を導入して国力の充実に努め、対ローマ貿易にも積極的であった。ドラヴィダ系諸語のひとつタミル語の文学作品には、西暦紀元の初期にまでさかのぼるものもある(シャンガム文学)。

南インドの諸国 – 世界の歴史まっぷ

諸王国の抗争

南インドにはドラヴィダ人のたてた王国の興亡がみられた。それらのなかでも、9世紀ころ半島当南端のタミル地方におこり、東西の海上貿易で栄えたチョーラ朝(9〜13世紀)は強力であった。
この王朝はスリランカを征服し、一時ガンジス川流域にまで兵を集めている。また11世紀初めに南海貿易を有利に導くため東南アジアのシュリーヴィジャヤにまで遠征し、中国にも使節を派遣している。チョーラ朝も12世紀には衰え始め、13世紀後半に周辺諸国の攻撃を受けて滅んだ。

諸王国の抗争 – 世界の歴史まっぷ

参考

詳説世界史研究

年表

  • 紀元前53000年頃、アフリカ東岸からインド南西部に移住する。 さらに北、東へと広がって行く。
  • 紀元前2600年頃、インダス川流域(現在のパキスタン)にインダス文明を形成する。複数の都市よりなる文明である。
  • 紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。気候の変化が理由だと言われる。
  • 紀元前1500年頃から、イラン高原からアーリア人のインド北西部への移住が始まる。
    北部支派:インド西部のオリッサ、ベンガル
    中部支派:インド中部のマディヤ・プラデーシュ
    南部支派:インド南部のデカン高原
  • 紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。が、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚した。
  • 紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。
  • 現在ドラヴィダ系の人々はインド全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は南インドを中心に居住している。
    メソポタミアのシュメール文明との関連性も指摘されている。ドラヴィダ語とシュメール語に共通性が見られるといった議論がインドではなされており、ドラヴィダ人はメソポタミア地方から移住したとの説も存在している。

参考 Wikipedia

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