ドレゲネ フビライ・ハン
ドレゲネ ©Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.

ドレゲネ

ドレゲネ (不詳〜1251年)
モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンの第6夫人。第3代皇帝・グユクの生母。諡号は昭慈皇后。
漢字表記では脱列哥那、禿納吉納などと綴られ史料によっては、ドレゲネと書かれることもある。オゴタイ=ハン没後モンゴルの監国となって政敵を遠ざけ、息子グユクを即位させた。

ドレゲネ

モンゴル宗室の系図

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

ドレゲネが、突如として大ハーン没後のモンゴル帝国において摂政・監国としてこれを総攬そうらんすることとなった。ややもするとその施政において拙策せっさくそしりを免れぬドレゲネだが、これは彼女自身トルイ家やジョチ家はもちろんのこと、オゴタイ=ハン家内部でも後援する勢力が絶無に近かったためだと思われる。

オゴタイ=ハンが没した直後に、チンギス=ハンの末弟であったテムゲ・オッチギンがカラコルムに上京して帝位を狙う構えを見せたが、ドレゲネはこれを叛乱はんらんに当たると非難して牽制けんせいした。
ほどなくグユクが西方からオゴタイ=ハン家の封土があったイミル湖畔に到着したとの知らせが有り、テムゲ・オッチギンはオゴタイ=ハンの弔問に訪れたのだと弁明したため、ドレゲネは他勢力によるカラコルム制圧を回避した。

ドレゲネはまず、夫に重用されていた功臣の耶律楚材やチンカイ、ヤラワチらを政治の場から遠ざけて、オゴタイ=ハンの治世晩年に中国地域の歳入監査で頭角を表したイスラム商人出身のアブドゥッラフマーン(モンゴル帝国)を重用し、帝国の財政運営を彼に委ねた。
民衆に対しては重税を課したため、東方でも西方でもアブドゥッラフマーンの登用は甚だ恨まれたようである。そして自身は監国となり、帝国の実権を掌握したのである。
さらにオゴタイ=ハンによって後継者に指名されていたはずのシレムンを、成人に達していないという理由で後継候補から除外させ、オゴタイ=ハン家の年長者であるという理由で自らの実子であるグユクを後継者に推した。

西方の遠征諸軍を率いていたバトゥは、これに反対してドレゲネのクリルタイ召集に応じず、以後約5年間モンゴル帝国は大ハーン位が空位のまま、ドレゲネの監国時代が続いた。

しかし、結局1246年6月にクリルタイが招集され、ドレゲナの巧みな政治工作によって、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、トルイ家からはソルコクタニ・ベキとその息子たち、チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダルらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。
さらにマー・ワラー・アンナフル総督のマスウード・ベク、イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行したルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン4世、ウラジーミル・スーズダリ大公国のヤロスラフ2世、グルジア王国ダヴィド兄弟、その他アッバース朝、アラムートのニザール派などの使節が参加したため、帝国規模のクリルタイが実現できた。バトゥも自ら参加することはなかったが、異母兄のオルダをはじめシバン、ベルケ、トカ・テムルらを派遣している。

このようにしてドレゲネは当初の目的通り、1246年8月、息子のグユクを大ハーンに即けることに成功した。そして、2ヶ月後の1246年10月、息子の即位に安心したかのように病のために没した。

ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になった。
1248年4月、グユクも遠征途上で急死した。

Wikipediaより

ドレゲネが登場する作品

フビライ・ハン

ドレゲネ
フビライ・ハン ©)Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.
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