ニハーヴァンドの戦い Nahâvand
642年のササン朝とイスラーム軍との戦い。イスラム軍が来襲したとき、ペルシア領内は内乱状態であり、最期の王・ヤズデギルド3世は完敗し、651年には逃亡先のメルヴ近くで暗殺されて、ついにササン朝は滅亡した。
ニハーヴァンドの戦い
642年のササン朝とイスラーム軍との戦い。ササン朝のヤズデギルド3世軍が完敗した。敗戦ののち、ササン朝はまもなく滅亡した。
戦争データ
年月日:642年 | |
場所:イラン ハマダーン州 ニハーヴァンド | |
結果:アラブ軍の勝利、サーサーン朝の事実上の滅亡 | |
交戦勢力 | |
正統カリフ | ササン朝ペルシア |
指導者 | |
サード・ブン・アビー・ワッカース | ペーローズ・ホスロー |
戦力 | |
30,000 | 100,000〜150,000 |
参考 Wikiwand
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
アラブ人の征服活動
第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブの時代、イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国(ヘラクレイオス朝)軍に破滅的な打撃を与えた。
642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。
ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。
オリエントと地中海世界
古代オリエント世界
ササン朝
アラブの進出
ラクダ遊牧民としてのアラブは、すでに紀元前9世紀のアッシリアの記録に現れる。
北アラビアからシリアへかけての砂漠にいたアラブは、しだいに周辺のオアシスに定着し、隊商貿易に従事して有力な都市民となるものもでてきた。南から波状的に押し寄せる新しい移住者を迎え入れ、彼らの勢力は次第に強大となり、従来はアラム人が優勢であった地域も徐々にアラブ化されていった。
アラブの代表的な隊商都市としてペトラ、パルミラ、ハトラなどをあげることができる。
経済的な理由で始まった南アラビアから北へ向けての民族移動は、4世紀以降一層その勢いを増したので、ササン朝にとってもローマにとっても大きな脅威となった。やがて両帝国はみずからの武力でこれを撃退するよりも、金銭を与えてその一部を懐柔し、砂漠の国境警備を肩代わりさせる方法をとった。しかしイスラムの旗のもとに終結するアラブの前に、いずれの帝国も撤退することになる。