ニハーヴァンドの戦い (642年) 正統カリフ時代の第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブのときのイスラームによって統制されたアラブ軍と、内乱状態のササン朝ペルシアが、イラクのニハーヴァンドで、戦った聖戦。ササン朝ペルシアはイスラム軍に完敗し、651年には最期の王・ヤズデギルド3世が逃亡先のメルヴ近くで暗殺されてササン朝は滅亡した。
ニハーヴァンドの戦い
戦争データ
年月日:642年 | |
場所:イラン ハマダーン州 ニハーヴァンド | |
結果:アラブ軍の勝利、サーサーン朝の事実上の滅亡 | |
交戦勢力 | |
正統カリフ | ササン朝ペルシア |
指導者 | |
サード・ブン・アビー・ワッカース | ペーローズ・ホスロー |
戦力 | |
30,000 | 100,000〜150,000 |
参考 Wikiwand
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
アラブ人の征服活動
オリエントと地中海世界

古代オリエント世界
ササン朝
ホスロー1世の死後、一時分裂状態に陥ったササン朝であったが、ホスロー2世という征服者の出現によって、その領域は最大になった。彼は小アジアの大部分、ロードス島、パレスチナ、エジプト、それに南アラビアまでも支配下におさめた。しかし彼の軍費調達は重税を招き、ティグリス川はまれにみるほどの大氾濫をおこすなど、国内的には危機が高まっていた。7世紀の半ばにアラブのイスラム軍が来襲したとき、ペルシア領内は内乱状態であり、最期の王・ヤズデギルド3世は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に完敗し、651年には逃亡先のメルヴ近くで暗殺されて、ついにササン朝は滅亡した。
アラブの進出
ラクダ遊牧民としてのアラブは、すでに紀元前9世紀のアッシリアの記録に現れる。 北アラビアからシリアへかけての砂漠にいたアラブは、しだいに周辺のオアシスに定着し、隊商貿易に従事して有力な都市民となるものもでてきた。南から波状的に押し寄せる新しい移住者を迎え入れ、彼らの勢力は次第に強大となり、従来はアラム人が優勢であった地域も徐々にアラブ化されていった。 アラブの代表的な隊商都市としてペトラ、パルミラ、ハトラなどをあげることができる。 経済的な理由で始まった南アラビアから北へ向けての民族移動は、4世紀以降一層その勢いを増したので、ササン朝にとってもローマにとっても大きな脅威となった。やがて両帝国はみずからの武力でこれを撃退するよりも、金銭を与えてその一部を懐柔し、砂漠の国境警備を肩代わりさせる方法をとった。しかしイスラムの旗のもとに終結するアラブの前に、いずれの帝国も撤退することになる。参考