ハリス T.Harris( A.D.1804〜A.D.1878)
アメリカの外交官。アジア貿易に従事、のち1856年初代アメリカ駐日総領事として下田に着任。清がアロー戦争の結果、天津条約を結んだ報が伝わると、それを利用して幕府に通商を迫り、1858年、日米修好通商条約の調印に成功した。着任中の様子を『日本滞在記』として著す。
ハリス
アメリカの外交官。アジア貿易に従事、のち1856年初代アメリカ駐日総領事として下田に着任。清がアロー戦争の結果、天津条約を結んだ報が伝わると、それを利用して幕府に通商を迫り、1858年、日米修好通商条約の調印に成功した。着任中の様子を『日本滞在記』として著す。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
日米和親条約に基づき、1856(安政3)年、アメリカの初代駐日総領事として下田に駐在したハリス(Harris, 1804〜78)は翌57(安政4)年、江戸に入って将軍に謁見し、強い姿勢で通商条約の締結を求めた。ハリスとの交渉にあたった老中首座堀田正睦(1810〜64)は勅許を得ることによって通商条約をめぐる国内の激しい意見対立をおさえようと上京し、アメリカをはじめとする列強と戦争になることを避けるため、条約を結ばざるを得ないと朝廷を説得した。堀田は勅許を容易に得られるものと判断していたが、朝廷では孝明天皇(在位1846〜66)を先頭に条約締結反対・鎖国攘夷の空気が濃く、勅許を得ることができなかった。
ところが1858年、アロー戦争で清国がイギリス・フランスに敗北して天津条約を結んだことが伝えられると、ハリスはこれを利用してイギリス·フランスの脅威を説き、早く通商条約に調印するよう迫った。大老に就任した井伊直弼(1815〜60)は、勅許を得られないまま同年6月日米修好通商条約に調印した。しかし、この調印は反対派から違勅調印であるとして、幕府への激しい非難と攻撃を生んだ。
開港とその影響
金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。そして、外国人を襲う事件が相つぎ、1860(万延元)年、ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン(Heusken, 1832〜61)が江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺され、さらに翌年、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷した東禅寺事件、1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光(1817〜87)の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件、さらに同じ年の暮れ、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作(1839〜67)·久坂玄瑞(1840〜64)らが襲って焼いたイギリス公使館焼打ち事件などがおこっている。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
明治維新(世界史)
19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した ❶ 。さらに初代アメリカ領事として着任したハリス Harris (1804〜78)が将軍に謁見して開国を求めると、アロー戦争の経過に強い衝撃をうけていた幕府は、大老井伊直弼(1815〜60)の主導下に、1858年、日米修好通商条約を締結した。ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも同様の条約(安政五カ国条約)を結んで開港を断行した。これらの条約は、開港場の増加のほか、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の喪失などを内容とする不平等条約であった。この条約は中国の南京条約・北京条約のような敗戦による条約ではなかったため、賠償金支払いや領土の割譲はなく、アヘンも禁輸とされるなど、中国に比べれば不平等性は弱かった。
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