バルカン同盟
1912年、ロシアの後押しでセルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアが結成した同盟。名目的にはオーストリアに対抗するための同盟だが、オスマン帝国のバルカンからの追放を目指し第1次バルカン戦争をおこした。
バルカン同盟
1912年、ロシアの後押しでセルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアが結成した同盟。名目的にはオーストリアに対抗するための同盟だが、オスマン帝国のバルカンからの追放を目指した。
帝国主義とアジアの民族運動
世界分割と列強対立
バルカン半島の危機
1911年、列強の関心が 第2次モロッコ事件 にむけられているときに、イタリアはトリポリ在留民の保護を口実にイタリア=トルコ戦争をおこした。翌年、スイスのローザンヌで開かれた講和会議の結果、イタリアは北アフリカのトリポリ・キレナイカの支配権を獲得した。この戦争は、バルカン諸国を刺激し、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアの4国はバルカン同盟を結成し、1912年オスマン帝国に宣戦布告した(第1次バルカン戦争)。セルビアがロシアの支援をえてアドリア海への進出を求めたことにオーストリアが強く反発し、ロシア・オーストリア両国は国境付近に大軍を集結させた。しかし、イギリスはロシアに圧力を加え、ドイツもオーストリアを抑制したため危機は回避された。
61.列強の国際対立の激化
三国協商の成立とバルカン半島の緊張
1912年、ロシアの支持のもとに、セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ、領土拡張をねらってイタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がおこった。オスマン帝国は敗れたが、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアの他の3国との間で再び戦争が始まり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国・ルーマニアもブルガリアを攻撃した。ブルガリアは敗北して、ドイツ・オーストリアに接近した。こうして「ヨーロッパの火薬庫」バルカンでは、小国と大国の利害が、そして民主主義が複雑にからみあい、小国の紛争が容易に大国間の戦争につながる危険な情勢がつくられていった。