ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine(
A.D.1741〜A.D.1799)
阮福暎を支援したフランス人宣教師。阮福暎の救援依頼に応えて帰国、1787年にフランス=コーチシナ攻守同盟条約を結んだ。フランスは革命直前の状況にあり、ベトナム支援はおこなわれなかったが、89年、個人的にフランス義勇兵をつれ帰り、阮朝建国を支援した。
ピニョー=ド=ベーヌ
阮福暎を支援したフランス人宣教師。阮福暎の救援依頼に応えて帰国、1787年にフランス=コーチシナ攻守同盟条約を結んだ。フランスは革命直前の状況にあり、ベトナム支援はおこなわれなかったが、89年、個人的にフランス義勇兵をつれ帰り、阮朝建国を支援した。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝と東南アジア
明朝を破った黎利がハノイにて即位し黎朝(1428〜1527・1532〜1789)を開き、国号を大越国とした。しかし16世紀前半には一時臣下(莫氏)に国王位を奪われたが、まもなく復興した。しかし実権は北部の鄭氏と、南部の阮氏に握られ、黎朝は南北に分裂した状態となった。18世紀後半、西山党の乱を契機に西山党の阮氏一族が北の鄭氏と南の阮氏を滅ぼし、ベトナムを統一して西山朝(1771〜1802)をたてた。西山党に滅ぼされた南部阮氏の一族である阮福暎はタイへ亡命していた。ラーマ1世やフランス人宣教師(ピニョー=ド=ベーヌ)の支援をうけた彼は、1802年、西山朝を倒してベトナムを統一して即位(嘉隆帝 位1802〜1820)し、フエを都とした越南(ベトナム)を開いた(阮朝 1802〜1945)。
南アジア・東南アジア世界の展開
大陸部の諸国の興亡
ベトナムは15世紀初め明の永楽帝に征服されてその支配下に入ったが、まもなく明軍を駆逐した黎利(レ・ロイ 位1428〜1433)によってハノイに都をおく黎朝(1428〜1527、1532〜1789)が創始された。この王朝は10〜11世紀の前黎朝に対し後黎朝とも呼ばれる。15世紀後半の黎聖宗(位1460〜1497)の時代が最盛期で、内にあっては明朝にならって諸制度を整え、また耕地の公田制を採択し、外に対しては南方のチャンパーと戦ってこれを壊滅させ、さらに西方のラオスに進出するなど、国威を大いに高めた。しかし、彼の死後はふるわず、1527年に臣下の莫登庸(位1527〜1529)に王位を奪われた。黎朝は1532年に復活するが、権力は弱く、国土の北半はハノイの鄭氏(東京)、南半はフエ(順化)の阮氏(広南)の実権下におかれた。1771年に広南国の阮氏に対して反乱をおこしたタイソン党(西山党)は、阮氏を破り鄭氏を追い、清の乾隆帝と結んで勢力の回復をはかった黎朝を最終的に滅ぼし(1789)、一時ベトナム全土を支配した(タイソン朝(西山朝)1771〜1802)。しかし、内紛と指導者(阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟)の死によって弱体化し、1802年に広南国阮氏の一族阮福暎によって滅ぼされた。阮福暎(世祖嘉隆帝 位1802〜1820)はフエに都をおく王朝(阮朝 1802〜1945)を創始し、国号をベトナム(越南)と定め、黎朝や清朝の制度にならって国制を整えた。しかし、阮福暎がタイソン軍との戦いに際してフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99)の援助をうけたため、この王朝はフランスとの関係が深く、これがフランス領インドシナ成立の遠因となった。
アジア諸地域の動揺
南アジア・東南アジアの植民地化
大陸部の植民地化
イギリスとインド経営を争って敗れたフランスは、19世紀半ばのナポレオン3世の時代からインドシナの植民地化を進めた。これよりさき、阮福暎(嘉隆帝)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99) の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスは1858年にスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵し、戦後結んだ第1次サイゴン条約 Saigon (1862)によってキリスト教布教の自由、コーチシナ東部3省と崑崙等の割譲などを認めさせた。
その後フランスはコーチシナ西部3省にも進出してコーチシナ全土を支配下においた。これ以後コーチシナ(メコン=デルタ)は急速に開拓されて米の大生産地となり、植民地政府と植民地起業家に莫大な富をもたらした。