プラッシーの戦い 遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)
プラッシーの戦い後ミール・ジャアファルと面会するロバート・クライヴ ©Public Domain

プラッシーの戦い

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プラッシーの戦い (1757年)

イギリス東インド会社軍が、フランス軍を後ろ盾としたベンガル太守を破った戦い。イギリスはベンガルの実質的な支配権を手に入れ、フランスはインドシナ進出に転じた。

プラッシーの戦い

戦争データ

年月日:1757年6月23日
場所:インド、プラッシー
結果:イギリスの勝利
交戦勢力
イギリス東インド会社 ベンガル太守
フランス東インド会社
指導者
ロバート・クライヴ
エア・クート
シラージュ・ウッダウラ
ミール・ジャアファル
戦力
ヨーロッパ兵750人
インド人傭兵2,100人
砲兵100人
大砲8門
歩兵7,000人
騎兵5,000人(シラージュ・ウッダウラの軍)
歩兵35,000人
騎兵15,000人(ミール・ジャアファルの軍)
大砲50門(43人のフランス兵)
損害
戦死者22人(ヨーロッパ兵5人とインド人傭兵13人)
負傷者50人(ヨーロッパ兵15人とインド人傭兵30人)
死傷者500人

参考 Wikipedia

イギリス東インド会社軍が、フランス軍を後ろ盾としたベンガル太守を破った戦い。イギリスはベンガルの実質的な支配権を手に入れ、フランスはインドシナ進出に転じた。

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1757年インド、ベンガル地方の太守シラージ・ウッダウラとイギリス東インド会社との間で、プラッシーの地で戦われた戦争。ベンガル太守はイギリス東インド会社およびその職員の密貿易がベンガル経済に大きな打撃を与えているのに抗議し、イギリス人をカルカッタ市から追放したが、ロバート・クライヴを将とするイギリス軍は1757年プラッシーの地で太守を破り、戦死させた。この戦争を契機としてイギリス東インド会社はベンガル地方の支配権を確立し、インド全土に対する植民地支配、侵略の橋頭堡きょうとうほとした。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ諸国の海外進出

遅れてきた諸国(英・仏両国のインドへの定着)

18世紀には、英・仏両国はたがいにインド各地の地方支配者間のこうした対立を利用しつつ、激しい抗争を展開する。18世紀中期には、フランスはデュプレクス(フランス領インド総督)(1697〜1763)の指揮下に、イギリス東インド会社と軍事対立を続け(1757年 プラッシーの戦い)、勢力を拡大した。

プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営

ヨーロッパで七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政)が始まると、戦火はアジアにも広がった。1757年、カルカッタの北で書記ロバート・クライヴの率いるイギリス東インド会社がフランス・地方支配者(ベンガル州総督)連合軍を破り(プラッシーの戦い)、ベンガルにおけるフランス勢力は決定的な打撃をうけた。また、この戦いによって、ムガル帝国のベンガル州総督が完全にイギリスの傀儡かいらいになってしまったことで、イギリスのインド支配の基礎が固まった。敗れたフランスは、この戦いで本国の国家財政がしだいに傾き、革命の遠因とさえなった。

1763年の世界地図
1763年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

勝利したイギリスは、ベンガル地方における支配権を確立し、ディワーニ(徴税権)を獲得した。この結果、東インド会社はしだいに、商社から植民地統治機構に変わっていった。こうした領土支配は、1774年ウォーレン・ヘースティングズ(1732〜1818)が初代ベンガル総督となると、さらに強まった。18世紀後半以降、中国からの茶の輸入が激増したため、イギリス東インド会社は1773年、インド産アヘンを専売とし、清朝が鎖国(海禁)政策を強化したために唯一の交易港となった広東カントンにこれを送って、支払いにあてた。このことが、のちにアヘン戦争をひきおこす引き金となった。

アジア諸地域の動揺

南アジア・東南アジアの植民地化

インド植民地化の進行

英・仏の会社の争いは、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争、七年戦争の勃発によって激しさを加えた。まず1742年にデュプレクス(フランス領インド総督) Dupleix (1697〜1763)が総督となりポンディシェリで積極的な活動を始めると、インド人諸侯相互の争いもからんだ戦争が勃発した。南インドでは前後3回にわたるカーナティック戦争 Carnatic War (1744〜48, 1749〜54, 1756〜63)が戦われ、インド人諸侯と組んだフランスの敗北に終わった。また北インドでは1757年にカルカッタ北方のプラッシー Plassey で、クライヴの率いるイギリス東インド会社軍が親仏反英のベンガル太守軍に勝利した(プラッシーの戦い)。こうしてフランス勢力をインドから駆逐したイギリスは、土着の王侯たちを軍事力で圧倒しつつ、独占的にインド経営を進めることになった。

アウラングゼーブの死後にムガル帝国が弱体化すると、アウド太守・ベンガル太守をはじめとするムスリム諸侯がつぎつぎに独立した。西北方面ではイラン・アフガン両勢力の侵攻があいつぎ、パンジャーブではシク教徒が力を強めた(シク王国)。西部デカンではマラーター族が勢力を回復し(マラーター同盟)、南部デカンでは将軍ニザームル=ムルク Nizam al-mulk がムガル帝国から独立してハイデラバード王国 Hyderabad をたてた。さらにその南には同じくムスリムの支配するマイソール王国 Mysore が存在した。こうしたインド内部の分裂と、地方に割拠する王侯たちの反目とは、すぐれた艦隊と火器とをもつイギリス東インド会社の進出に絶好の機会を与えた。

イギリス領の拡大地図 インド植民地化の進行
イギリス領の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

プラッシーの戦いでベンガルに足場をきずいたイギリスは、1764年のブクサールの戦い Buxar で再び土着勢力を破り、翌1765年にムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサのディワーニー diwani (徴税・行政権)を獲得し、東インドの広大な土地の事実上の支配者となった。会社はもはや単なる貿易企業体ではなくなり、インドの土地と住民を直接支配し、インド人から徴収した税を主たる財源とする権力機構となった。「インドの富」はこうしてイギリスに流出し、イギリス本土における産業資本の成長に貢献した。

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