ベンジャミン=フランクリン(
A.D.1706〜A.D.1790)
アメリカの文筆家、出版業者、発明家、科学者、外交官、政治家。第2回大陸会議のペンシルヴェニア代表、独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスにわたり活躍、アメリカ政府代表の一員としてパリ条約(1783)を集結した。
ベンジャミン=フランクリン
アメリカの文筆家、出版業者、発明家、科学者、外交官、政治家。貧家の17人兄弟の15番目に生れ、印刷工になった。1721年新聞『ニューイングランド・クーラント』紙を創刊。31年フィラデルフィア読書愛好会を設立、49年にはフィラデルフィア・アカデミー(ペンシルバニア大学)の創設にも協力した。46~47年電気の研究を行い、雷が電気現象であることを証明し、49年避雷針を考案した。また、正、負の帯電状態を電気流体の過不足として説明した。51年には有名な『電気に関する実験と観察』 Experiments and Observations on Electricity という書簡集を刊行。54年オールバニ連合案を立案。64~75年ペンシルバニアの代理人としてイギリスに駐在、65年イギリス議会で印紙税法に対する植民地人の立場を証言。75年帰国、76年経済・軍事援助を求めるために大陸会議がフランスに派遣した使節団に加わってパリにおもむき、フランスとアメリカ植民地との同盟条約の締結に成功した。83年パリ条約に調印後もフランスとアメリカとの通商条約の締結に尽力。85~88年ペンシルバニア議会の議長をつとめた。87年合衆国憲法制定会議に出席し、対立点の妥協に尽力した。『自叙伝』 Autobiography は有名。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代社会の成長
アメリカ独立革命
戦争の経過とパリ条約
フランスとの同盟のため、大陸会議から代表としてフランスに派遣されていたベンジャミン=フランクリン(1706〜1790)は、フランス人の間に非常に人気があった。彼の人気に加え、七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランス政府は、参戦には慎重であったが、ひそかに金銭的援助や物資補給で植民地の支援を続けていた。サラトガの勝利の報せは、このフランス政府を参戦にふみきらせた。1778年、フランスは合衆国と和親・通称の条約を結び、正式にその独立を承認し、軍事同盟に同意し、イギリスに宣戦を布告した。こうしてフランスの陸海軍が戦争に加わることになった。翌年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦をおこなった。また、イギリス海軍が大陸への援助を妨害したことから、1780年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱でヨーロッパ諸国の参加する武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。
ベンジャミン=フランクリン
イギリスから移住したボストンのロウソク製造職人の子。独学で当時のヨーロッパ一流の学者や啓蒙思想家の文や思想を学んだ。17歳でフィラデルフィアに行き、印刷業を始めた。さらにその後『ペンシルヴァニア・ガゼット』を発行、その編集を続けた。最初の無料公立図書館を開き、のちのフィラデルフィア図書館の基礎をきずいた。彼の印刷所は植民地の公文書や紙幣の印刷をひきうけ、かなりの利益をあげた。1732年、『貧乏リチャードの暦』を出版した。暦のなかにユーモアに満ちた実用的な警句やことわざや詩を入れたのが人気を博し、これが毎年出版されることになり、彼は一躍、国の内外の有名人となった。
彼の学問は「独創的で実利的」であったが、フランス、イタリア、スペイン、ラテンの各言語を修め、避雷針の発明にみられるような自然科学研究以外にも政治・哲学などの人文科学を含め、多方面の領域で研究活動、論文記述をおこなっている。政治家としても活躍し、第2回大陸会議のペンシルヴェニア代表、独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスにわたり活躍、1783年のアメリカ政府代表の一員としてパリ条約(1783)を集結した。