ペリー
ペリー(マシュー・ブラディ写/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ペリー


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ペリー M.C. Perry( A.D.1794〜A.D.1858)

アメリカ東インド艦隊司令長官。1853年、蒸気軍艦(外車をもつ外輪船)サスケハナ号に乗って太平洋横断航路の開設などを目的に、相模の浦賀沖に来航。久里浜に上陸、国書を提出して退去。翌年、ポーハタン号を旗艦として再来日。日米和親条約の締結に成功。『日本遠征記』を残す。

ペリー

アメリカの東インド艦隊司令官。1853年、大統領の国書を携えて浦賀に来航。開国を要求したが、猶予を求められて退去。54年に再度来航し、日米和親条約を結んだ。

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アメリカ東インド艦隊司令長官。1853年、蒸気軍艦(ただし、外車をもつ外輪船)サスケハナ号に乗って太平洋横断航路の開設などを目的に、相模の浦賀沖に来航。久里浜に上陸、国書を提出して退去。翌年、ポーハタン号を旗艦として再来日。日米和親条約の締結に成功。『日本遠征記』を残す。

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合衆国水師提督口上書
合衆国水師提督口上書(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

欧米における近代国民国家の発展

アメリカ合衆国の発展

領土の拡張
ペリーの日本来訪

当時、日本近海で捕鯨活動をおこなっていたアメリカは、海難にともなう船員の保護、食料・水・燃料の補給のための寄港、通称のための寄港を目的として開国を要求した。しかし、すでにアメリカは1837年、モリソン号が日本人難破船員を送り届け通称を求めたが、幕府側の砲撃によって退散した事件を経験していたし、46年にも浦賀に2隻のアメリカ船が訪れて通称を求めたが拒否され、さらに同年日本近海で難破した捕鯨船員15名が長崎に拘留されて過酷な待遇をうけたことがあった。このため、ペリーは本国から平和的な方法による開国交渉を指示されていたが、実力の誇示こそが日本開国に効果があると考えていた。1853年の初訪問では8日間いただけで退去し翌年再度訪問して日米和親条約を締結した。53年はちょうどクリミア戦争がおきた年であり、日本近海に触手をのばしていたイギリス・フランス・ロシアはその戦争に忙殺されていた。

アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

明治維新
ペリー 黒船来航
1854年黒船来航(ペリーに随行した画家ウィルヘルム・ハイネ画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ペリー来航 日米和親条約締結のため横浜に上陸したペリー一行を描いたもの。17世紀以来の鎖国体制は崩れ、開国による対外危機の中で下級武士層を中心に倒幕運動がおこり、江戸幕府が滅亡した。 参考:山川 詳説世界史図録

19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した

19世紀半ばの東アジア地図
19世紀半ばの東アジア地図 ペリーの来航ルート ©世界の歴史まっぷ
この後、イギリス・ロシア・オランダともほぼ同様な和親条約が締結された。
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