ホームステッド法
ホームステッド法切手(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ホームステッド法


ホームステッド法 Homestead Act ( A.D.1862〜〜)

南北戦争中にリンカン大統領が交付した自営農育成のための法。公有地で5年間定住・耕作した者に、160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で与えるとした。西部農民の北軍支持と、戦後の西部開拓に貢献した。

ホームステッド法

自営農育成のための法。公有地で5年間定住・耕作した者に、160エーカー(約65ヘクタール)の土地を無償で与えるとした。西部農民の北軍支持と、戦後の西部開拓に貢献した。

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アメリカ市民に公有地を提供した一連の自営農地法をいう。特殊的には1862年5月20日連邦議会で成立した自営農地法をさす。1785年の土地法以来19世紀前半に行われていた公有地処分法は連邦政府の歳入源確保を第1目的としたものであった。1830年代無償払下げを要求する農民と労働者の連帯も G.エバンズらを指導者として進み、 A.ジャクソン大統領は「公有地ができるだけ早く歳入源でなくならなければならない」と言明した。46年ホームステッド法案が連邦議会に提出され、52年にいたって投票にかけられたが上院で否決。48年自由土地党が綱領の一つとしてこれを掲げたが、60年まで大政党はこれを取上げず、南部と東部で反対勢力が強く制定が阻止された。60年 G.グロウが再提案し上下両院を通過したが J.ブキャナン大統領が拒否権を行使。共和党の大統領選挙戦での勝利と南部諸州の分離により情勢が有利に展開し、62年5月20日ようやく成立をみた。内容は、21歳以上のアメリカ市民あるいは市民になろうとする者で、家長または14日間以上軍隊にいた者、連邦に反逆したことのない者に、10ドルの登録料で5年間定住し開墾すれば64ha(160エーカー)の公有地を無償で譲渡するというものであった。その後種々の補足的法案が付加されたが、実質的にはこれらの土地法は、自営農民になろうとする者よりも、大企業、土地投機業者などの土地買占めに利用されることが多かった。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

アメリカ合衆国の発展

南北戦争

北部はもともと人口・農地・工場・預金高・鉄道の敷設距離など、戦力の面で南部と比較して優勢であったが、有能な将軍がいなかったため、戦争開始段階では南部がヴァージニア出身のリー将軍 Lee (1807〜70)のもと優勢に戦局を展開した。北部側は劣勢をはね返すために将軍を更迭したり、南部の補給ルートを断つために海上封鎖を実施したりした。さらに西部地域の支持を獲得する意図もあって、62年ホームステッド法 Homestead Act を制定して5年間西部に定住しただけで160エーカーの土地を無償で提供することを決めた。またイギリスや当時メキシコに軍隊を派遣していたフランスの干渉を排除するために、奴隷解放宣言を1863年1月発表し、内外に北部の戦争目的の正当さをアピールした。ミシシッピ川流域で連勝していたグラント将軍 Grant (1822〜85 任1869〜77)が北軍の最高司令長官に就任するころから、戦局はしだいに北部側優勢へと転換し、63年のゲティスバーグの戦い Gettysburg で北部深く侵入したリー将軍率いる南軍を北軍が破ると、北部の優勢は動かないものとなった。補給がない南軍はしだいに追いつめられ、シャーマン将軍 W.Sherman (1820〜91)はアトランタを占領し、グラント将軍はリー将軍を追いつめた。1865年ついに連合国 の首都リッチモンドが陥落して南北戦争は北部の勝利に終わった。

西部の開拓と改革運動

西部ではカリフォルニアのゴールドラッシュが一段落すると、今度はコロラド・ネヴァダなどで金を探す山師たちが大量に移動し、さらにホームステッド法の実施による移民も重なり、機械の導入もはかられて西部は世界最大の小麦生産地帯となった。この西部への大量移動を可能にしたのが大陸横断鉄道の開通であった。カリフォルニアからはセントラル=パシフィック会社が、東方からはユニオン=パシフィック会社が競争で鉄道線路を敷設し、前者は中国人労働者を、後者はアイルランド人労働者を使ったりして、1869年5月10日プロモントリー=ポイントで連結した。

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