マウリヤ朝 (
B.C.317〜B.C.180)
古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。しかしアショーカ王の死後国家は分裂し、紀元前2世紀初頭、シュンガ朝の勃興により滅亡した。
首都:パータリプトラ。
マウリヤ朝
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
マウリヤ朝の成立
紀元前4世紀、ガンジス川流域ではマガダ国がナンダ朝のもとで発展を続け、同世紀の半ばころ全流域の統一をぼぼなしとげた。
一方、インダス川流域は、ダレイオス1世の征服(前520頃)以後アケメネス朝の属州となり、さらに紀元前4世紀後半にはアレクサンドロス3世に征服され(前327〜前325)、一時ギリシア勢力の支配下に入った。
両大河にまたがる統一帝国を初めて打ち立てたのは、
マウリヤ朝(前317〜前180)の創始者
チャンドラグプタ(マウリヤ朝)である。彼はナンダ朝からマガダの王位を奪い、前王朝と同じ
パータリプトラに都をおくと共に、アレクサンドロス3世の死後の混乱状態にあったインダス川流域からギリシア勢力を一掃した。そして、シリアのセレウコス朝の軍の進出をはばみ(前305)、これと講和を結んで使節を交換した。このとき使節としてパータリプトラに派遣された
ギリシア人のメガステネスは、帰国後に『インド誌』を著している。チャンドラグプタ(マウリヤ朝)はつづいて南方のデカン方面の征服を進めた。マウリヤ朝は第3代のアショーカ王(前268〜前232)の時代に全盛期を迎えた。アショーカ王は即位後8年に半島東岸のカリンガ国を征服し、その結果マウリヤ帝国の領域は半島南端部をのぞく亜大陸全域におよぶことになった。しかしアショーカ王はこのときの惨状をみて後悔し、
仏教への信仰を深めるとともに、武力を放棄し、万人の守るべき理法(ダルマ)による統治を理想として掲げるにいたった。そして、その理想を
詔勅(法勅)として発布し、領内各地の岩石(
摩崖)や石柱に刻ませ、さらに南東南端部や地中海方面にまで使節を派遣してその理想を伝えた。王はまたダルマの政治の一環として道路を整備し、人畜の病院をたてるなど社会事業にも力を注いだ。
アショーカ王法勅はギリシア文字を含む4種類の文字で刻まれているが、そのうちのブラフミー文字は、今日のインド・スリランカ・ミャンマー・タイ・チベットで使われている文字の祖形である。
ブッダの死後に発展を続けてきた仏教は、アショーカ王の保護下に亜大陸の辺境地まで伝えられた。アショーカ王はまた多数の仏塔(ストゥーバ)を建立し、第3回の仏典結集を援助したといわれる。スリランカに仏教が伝わったのもこの時代であった。同島の伝説によると、このとき仏教を伝えたのはアショーカの王子マヒンダであったという。スリランカはこれ以後、上座部(テーラヴァーダ)と呼ばれる部派の根拠地となった。この部派の仏教は、のちに東南アジアへも伝えられ、今日にいたっている。
アショーカの死後マウリヤ朝は衰退に向かい、紀元前180年ころシュンガ朝(〜紀元前68)にとってかわられた。マウリヤ朝時代にガンジス川流域の先進文化は亜大陸の各地に伝えられ根を下ろした。そしてマウリア朝崩壊後、それらの地方において、経済的・文化的発達を背景にいくつかの有力国家が興った。