マルティン・ルター
マルティン・ルター像(ルーカス・クラナッハ画/ウフィツィ美術館蔵)©Public Domain

マルティン・ルター


マルティン・ルター( A.D.1483〜A.D.1546)

神聖ローマ帝国(ドイツ)の神学者、教授、作家、聖職者。1517年、教皇の贖宥状しょくゆうじょう販売を批判し「九十五カ条の論題」を公表したことが「宗教改革」の発端となる。新約聖書のドイツ語訳を完成させる。

マルティン・ルター

ローマ教会を批判し宗教改革の火ぶたを切る

1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内教会の扉に「九十五カ条の論題」が貼りだされた。「ただ信仰によってのみ魂は救済される」とするマルティン・ルターの、ローマ教会とレオ10世(ローマ教皇)に対する痛烈な批判であった。

20代で回心し、アウグスティヌス派の修道院に入ったルターは、その当時ヴィッテンベルク大学の神学博士の職にあった。パウロの「ローマ人への手紙」に感銘を受け「福音の再発見」に神の救いを見出していた。つまり、安易な贖宥状(免罪符)の発行は教会の堕落であり、福音に反すると問題提起をしたのだ。ラテン語で書かれたこの書状は神学論争で、民衆を意識してはいなかったが、すぐにドイツ語に翻訳されて全土に広がった。そして激しい議論を引き起こし、宗教改革の火ぶたを切ったのだ。

反旗を翻したルターは、教皇から破門された。だがヴァルトブルク城にかくまわれて、新約聖書のドイツ語翻訳などの大仕事を成し遂げた。

恋する宗教家:宗教家も人間的な生活からかけ離れてはいけない。人間性を抑圧する修道院や聖書の掟からの解放をうたい、自身も1525年に結婚。6人の子供に恵まれて幸せな家庭生活を送った。
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「九十五カ条の論題」から宗教改革の口火を切る

鉱山を経営する父をもち、ドイツの大学で、文学、法学を学んだルターは、心境の変化により修道会に入信。神学の研究を始め、ヴィッテンベルク大学に招かれて教授となった。折しもレオ10世(ローマ教皇)が、サン・ピエトロ大聖堂修築資金を得るため、贖宥状しょくゆうじょうを販売した。これは、金銭で罪が軽減されるとする免罪符である。ルターはこれを批判し「九十五カ条の論題」を公表した。
マルティン・ルター
ドイツ、ドレスデンのフラウエン教会前に立つルター像

これはラテン語だったが、ドイツ語に翻訳され、ヨハネス・グーテンベルクの改良した活版印刷機により、またたく間にドイツ全土に流布した。この結果、多くの民衆の支持を集め、「宗教改革」の口火が切られた。当然のごとくルターは破門されたが、ルターはローマ教会とは離れた新しい教会を建て、教説や著作で対抗した。カール5世(神聖ローマ皇帝)ヴォルムス帝国議会でルターを召喚するが、ルターは引き下がらない。カール5世はルター派を全面禁止、ルターは「追放刑」を宣告された。
ルターを保護したのはフリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)だった。ルターはヴァルトブルク城に匿われ、『新約聖書』のドイツ語訳を完成した。

カトリックでは、神父は生涯にわたり独身が義務とされるが、ルターは結婚を肯定。自身も還俗した元修道女と結婚し、6人の子をもうけた。家庭生活はルターの心の支えになったという。
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近代ヨーロッパの成立

宗教改革

ルターの改革

ルターの改革運動の舞台となった16世紀のドイツは、300前後の大小さまざまの領邦国家、教会領や独立権をもつ帝国都市が分立し、スペイン・フランス・イギリスのような中央集権国家の形成が遅れていた。ドイツ国王は神聖ローマ皇帝を兼ねていたため、世界国家の理念にたって超国家的政策を追求し、また事実上帝位を世襲していたハプスブルク家は自己の勢力拡大に力を入れ、ドイツの国家的統一には関心を示さなかったからである。こうした政治的分裂状態のドイツは教皇庁の最も重要な財源となり、教会組織をつうじて富はローマに吸いあげられ、「ローマの牝牛めうし」と呼ばれていた。ドイツの諸都市の中小商工業者、農民層はしだいにこのような不合理な搾取に批判をもちはじめていた。ルターの改革運動はドイツ人の感情と利害に一致する側面をもっていたのである。

マルティン・ルター
マルティン・ルター像(ルーカス・クラナッハ画/ウフィツィ美術館蔵)©Public Domain

マルティン・ルター(1483〜1546)はザクセンのアイスレーベンに生まれ、代々農家であったが、父は成功をおさめた鉱山業者であった。父の希望でエアフルト大学の法学部に進んだが、信仰にめざめ、厳格さで知られるアウグスティヌス修道会(聖アウグスチノ修道会)に入り、神学研究を深め、ヴィッテンベルク大学の神学教授となった。彼のキリスト教信仰に対する解釈や立場は、「塔の体験」と呼ばれるその激しい内面のドラマと深く関連するが、1517年、ヴィッテンベルク城内教会の扉にはりだされた九十五カ条の論題(意見書)で、贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)販売に対する批判としてまず表現された。ルターは贖宥状の購入が救済になんら意味がないこと、信仰によってのみ救われることを主張したのである。

宗教改革の発端となったルターの論題は、聖職者の間の問題として提起されたものであったが、印刷され各地で売り歩かれ、ドイツ全土で大きな反響を呼んだ。ルターはローマに告発され、1519年、彼と反対の立場にたつ神学者ヨハン・エック(1486〜1543)とライプチヒ(ライプツィヒ)で公開討論会がおこなわれた。ここでルターは、ヤン・フスの説を容認し、自分が異端と同じ立場にたつことを明らかにさせられた。教皇はルターを破門にしたが、ルターは1520年、『キリスト者の自由』など3つの論文を書いて、カトリックの教義批判、自己の信仰の立場を明らかにした。

『キリスト者の自由』のほか『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』『教会のバビロン捕囚』を執筆した。

ドイツの多くの都市の市民・諸侯がルターを支持した。1521年カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)はルターをヴォルムス帝国議会に召喚して、彼に自説の撤回を迫ったが拒否された。ルターは法律の保護外におかれたが、フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)によってヴァルトブルク城にかくまわれ、ここから改革運動を指導した。ここでルターは近代ドイツ語に大きな影響を与えた聖書のドイツ語訳を完成した。

ルターとエラスムス

宗教改革は「エラスムスは卵を産んで、ルターがこれを孵した」といわれるように、最初、教会改革については2人の意見が一致していた。デジデリウス・エラスムスとマルティン・ルターは直接会って話したことはなかった。しかし、手紙を交わし相互に強い関心をもっていた。エラスムスも九十五カ条の論題についても好意的であり、キリスト教の正しい精神をよみがえらせることで共同の戦いをしていたのである。
しかし、ルターが自分たちの陣営への参加協力を求めたとき、エラスムスは自分は中立でありたいとしこれを断っている。1524年エラスムスの出版した『自由意志論』に対して、ルターは1525年『奴隷意思論』を書いて激しい批判を加えた。

エラスムスはヒューマニストとして、人間の価値と尊厳を主張し、人間はみずからの意思によって自己を教育し、自己の欲するものになれると論じた。彼は聖書の教え、人間の理性を用いてその主張を組み立てている。一方、ルターは神の前に意思は自分の力で救いを達成しうるかと問い、救済においては人間の意思は神の前に無力であるとする。人間の自由意志の強調が神や他者の排除につながる危険を感じたのであろう。

ルターが『キリスト者の自由』で述べた「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」という立場はここでも貫かれている。

この論争は、エラスムスとルターの神と人間の関係のとらえかたの本質的な違いにかかわるものであったが、この論争のなかでルターが示した尊大・独善的態度に接したエラスムスは、以後ルターとの関係を断ち切るのである。

ルターの改革 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

同時代の人物

北条早雲(1432〜1519)

小田原北条氏初代。戦国時代の下克上の典型的武将。堀越公方の足利茶々丸を追い落として伊豆国を掌握し、小田原城を奪取して、伊豆、相模の大名となった。

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