マルヌの戦い (第一次世界大戦 > 西部戦線)(1914.9.5〜12)
仏英軍がパリ東方のマルヌ川でドイツ軍の進撃をくいとめ、短期決戦作戦(シュリーフェン計画)を挫折させた戦い。西部戦線は膠着し、一進一退の塹壕戦となった。
マルヌの戦い
仏英軍がパリ東方のマルヌ川でドイツ軍の進撃をくいとめ、短期決戦作戦(シュリーフェン=プラン)を挫折させた戦い。西部戦線は膠着状態におちいり、ドイツは東西二面作戦を余儀なくされた。
二つの世界大戦
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦の勃発
ドイツはかねてからのシュリーフェン計画にもとづいて短期決戦を敢行したが、北フランスのマルヌの戦い Marne (1914年9月初旬)に敗れて進撃を阻止された。以後西部戦線は膠着し、一進一退の塹壕戦となった。東部戦線ではヒンデンブルクの率いるドイツ軍が東プロイセンのタンネンベルクの戦い Tannenberg (1914年8月下旬)でロシア軍を殲滅し、ポーランドなどロシア領内に進撃したが、国土の広さや厳しい冬の気候のため決着の見通しはたたなかった。
シュリーフェン計画
ヨーロッパの中央に位置するドイツ(中央ヨーロッパ=中欧という表現がドイツでは好まれる)はロシアとフランスという東西の両強国にはさまれるという地政学的な位置関係から、常に二正面作戦を強いられる危険性があった。そこでドイツの参謀総長シュリーフェン将軍は、まず西部戦線で迅速に行動してフランス軍の主力を破り、直ちに左に転じてロシア軍にあたり、戦争に6週間で勝利するという短期決戦を構想した。この作戦計画は第一次世界大戦の緒戦で実行に移されたが、ロシア軍の動員が予想よりも迅速であったため、ドイツは西部戦線の右翼に配置していた師団の一部を東部戦線に割かざるを得なかった。そのおかげでタンネンベルクでは勝利したものの、マルヌの戦いでの敗北は軍事物資を大量に消費する長期戦への転機となった。こうして、西部戦線第一主義と短期決戦にもとづくシュリーフェン計画は挫折した。
マルヌの戦いデータ
年月日:1914年9月5日-12日 | |
場所:フランス、パリ近郊のマルヌ川 | |
結果:フランス、イギリスの勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス・イギリス | ドイツ |
戦力 | |
1,071,000 | 1,485,000 |
損害 | |
約263,000 | 約250,000 |
参考 Wikipedia
63.第一次世界大戦
ドイツの攻勢から塹壕戦へ
戦況は、ドイツ軍がベルギーの中立をおかしてパリをめざしたが、マルヌの戦いでフランス軍に阻止され、西部戦線は膠着した。以後、両軍とも塹壕にたてこもり、航空機・毒ガス・戦車などの新兵器を投入し、多くの死傷者を出しながら一進一退をくりかえす戦況になった。