ミトラ教
牡牛を屠るミトラス (ルーヴル美術館蔵) @Wikipedia

ミトラ教

ミトラ教 (ミトラス教またはミスラス教) 紀元前60年ころ〜5世紀
古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラスを主神とする密儀宗教である。

ミトラ教

ローマ人の宗教はギリシアと同じく現世的であった。祭儀や礼拝によって神々が人間を幸福にすると信じられていた。かまどや四ツ辻などの神を信じ、ユピテル・マルス・ウェヌス(ヴィーナス)などの主神はギリシアのオリンポスの神々と融合していった。また、「ローマ」や勝利・平和などの観念も次々に神格化した。帝政期には死んだ皇帝の神格化と、皇帝礼拝が進められ、ことに属州では女神ローマと皇帝の礼拝が盛んに行われた。
しかし、属州民一般の間には東方系の密儀をともなう神秘宗教が浸透した。エジプトのイシス教やミトラ教、そしてキリスト教もそのひとつであった。また帝政期には占星術や魔術も流行し、人々の心をとらえていた。

ミトラ教はイランに起源をもつといわれ、太陽神と同一視された。牛をほふる儀式を特徴とした。
ミトラ教側の系統の太陽神とともに密儀宗教としては例外的にローマの皇帝、軍人に崇拝者をえ、マルクス・アウレリウスやユリアヌスが熱心にミトラのために牛を屠ったと伝えられている。
ミトラ教は唯一神でありキリスト教と競合することが多かったと思われるが、キリスト教の勝利ののち弾圧された。コンスタンティヌス1世は別系統の太陽神を早くから信じ、彼はその太陽神とキリスト教の神を一致させていったのではないかと考えられる。(詳説世界史研究

概要

ミトラ教は牡牛をほふるミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。
信者組織は7つの位階を持つ(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。また、入信には試練をともなう入信式があった。

ミトラ教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが、ローマ帝国で確認されるミトラ教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラ教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。

キュモン(近代になってフランツ・キュモンが初めてミトラ教に関する総合的な研究を行い、ミトラ教の小アジア起源説を唱えたが、現在ではキュモンの学説は支持されていない。)以降、ミトラ教はインド・イランに起源するミトラス神や、7位階の1つペルシア人をはじめとするイラン的特徴や、初期に下級兵士を中心に信仰されたという軍事的性格から、ミトラ教は古代イランのミスラ信仰に起源を持つと考えられてきた。
しかし両者の間には宗教形態の点で大きな相違点があり、古代イランにおけるミスラはイランを守護する民族の神であり、公的、国家的な神だったが、ローマ帝国におけるミトラ教は下級層を中心とした神秘的、秘儀的な密儀宗教の神であり、公的であるどころか信者以外には信仰の全容が全く秘密にされた宗教であったし、民族的性格を脱した世界的な救済宗教としての素質を備えていた。こうした宗教としての根本的なちがいは研究者にとって悩みの種であり、現在ではキュモンのようにイランのミスラ信仰から直接的に発展したと捉えることは困難とされている。しかしミトラ教のイラン起源を全く否定することもできず、ミトラ教の黎明期に教祖ないし宗教改革者が存在したことを想定する研究者もいる。イランの民族神ミスラとは違い、ゾロアスター教で信仰されるミスラは世界の監視、死後の裁判の役割を担うルシファーのような存在であった。

他方、『イエス伝』の著者エルネスト・ルナンの有名な1節によって、ミトラ教がキリスト教の有力なライバルであり、ローマ帝国の国教の地位を争ったほどの大宗教だったとする過度な評価は現在も根強い。さらにキリスト教との類似からキリスト教の諸特徴がミトラ教に由来するという説が論じられることも多い。他宗教との比較という点では、日本では以前から大乗仏教の弥勒信仰がインド・イランのミスラ信仰に由来することが論じられてきたが、宗教形態の違いから、むしろ近年ではミトラス教と比較されることがある。

発展と衰退

  • ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝コンモドゥス(在位180~192年)はローマ皇帝で初めてミトラス教に儀式に参加した皇帝とされ、コンモドゥス帝はオスティアの皇帝領の一部を寄進した。この時代、ミトラ教の考古学資料は増大し、中には属州でコンモドゥス帝のためにミトラスに奉納した旨を伝える碑文も発見されている。
  • セウェルス朝初代皇帝セプティミウス=セウェルス(在位193~211年)の宮廷にはミトラス教に信者がいた。
  • 250年ごろから284年ごろまでの間はミトラス教遺跡は激減する。これはダキアにゲルマン民族が侵入して帝国の北方地域が荒廃したためである。
  • 軍人皇帝時代ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270~275年)は、ローマ帝国内の諸宗教を太陽神ソル・インヴィクトスのもとに統一しようとしたが、これはミトラス神ではない。太陽神殿跡からはミトラス教の碑文が発見されているが、それはコンモドゥス帝時代のものである。
  • 『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾したテトラルキア時代のディオクレティアヌス帝(在位284~305年)は他の共同統治者とともにローマ帝国の庇護者である不敗太陽神ミトラスに祭壇を築いた。テトラルキア時代のディオクレティアヌスやガレリウスはキリスト教を迫害した
  • コンスタンティヌス朝の大帝コンスタンティヌス1世(在位306~337年)はキリスト教を公認し(313年)、325年のニケーア公会議を主導、死に際してはキリスト教の洗礼を受けた。この時代以降、ミトラス神殿がキリスト教徒によって襲撃されるようになり、実際にオスティアの神殿の1つやローマのサンタ・プリスカ教会の地下から発見された大神殿などには破壊の跡がみられる。各地で碑文も減少した。
  • コンスタンティヌス朝の背教者フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(在位361~363)(コンスタンティヌス1世の甥)の治世下でキリスト教の特権を廃して古代の神々の復権をはかる宗教改革でミトラ教は一時増加するが、わずかな期間にすぎず、5世紀頃には消滅した。

Wikipediaより

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