ムハンマド=アリー
ムハンマド=アリー(オーギュスト・クーデル画/ヴェルサイユ宮殿蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ムハンマド=アリー


ムハンマド=アリー Muhammad ʿAlī( A.D.1769〜A.D.1849)
スンナ派。オスマン帝国のエジプト総督で、ムハンマド=アリー朝の創始者。ナポレオンのエジプト遠征に抵抗し、1805年にオスマン帝国からエジプト総督に任命され、18年にはオスマン帝国の要請でワッハーブ王国を滅ぼした。近代化政策を推進し、ギリシア独立戦争でオスマン帝国を支援した代償にシリアを要求した。2度のエジプト=トルコ戦争でエジプト総督の世襲権を認められたが、ヨーロッパ列強の干渉も招いた。

ムハンマド=アリー

オスマン帝国のエジプト総督で、ムハンマド=アリー朝の創始者。ナポレオンのエジプト遠征に抵抗し、1805年にオスマン帝国からエジプト総督に任命され、18年にはオスマン帝国の要請でワッハーブ王国を滅ぼした。近代化政策を推進し、ギリシア独立戦争でオスマン帝国を支援した代償にシリアを要求した。2度のエジプト=トルコ戦争でエジプト総督の世襲権を認められたが、ヨーロッパ列強の干渉も招いた。

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エジプト、ムハンマド・アリー朝の創始者。ナポレオンのエジプト遠征時にオスマン帝国から派遣されたマケドニア生まれのアルバニア人。ナポレオン軍撃退後エジプト総督となり、英国を退けエジプトを統一、中央集権を図り近代化。アラビア半島とスーダンを征服。対オスマン帝国の反乱を起こし勝利するが列強の干渉を招いた。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ギリシア独立戦争

ナショナリズムの精神は、当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアにおいても高揚した。19世紀初め、イプシランティ A.Ypsilanti (1792〜1828)率いるヘタイリア Hetairia が結成され、ギリシアの独立をめざしたが、1821年になって武力闘争に発展した。オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス(シオ)島の残虐事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立運動支援にまわり、G.カニングの仲介によって同盟を結成した。1827年の英・仏・露の三国艦隊によるナヴァリノの海戦 Navarino が勝利に終わったことは、ギリシアの独立を確実なものとした。

正統主義 ウィーン体制 ウィーン会議 ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
ギリシア独立戦争
キオス島の虐殺(ウジェーヌ・ドラクロワ画/ルーブル美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

「キオス島の虐殺」:キオス島でのオスマン軍(ムハンマド=アリーの派遣したエジプト軍)による虐殺のさまを描いたもので、「ヨーロッパの故郷」ギリシアの奪還に関して世論に影響を与えた。ドラクロワ画(1824/パリ・ルーヴル美術館蔵)。

ヨーロッパの再編

東方問題とロシアの南下政策

近代化政策を進め、国内の富国強兵に成功したエジプトのムハンマド=アリー(位1805〜49)は、ギリシア独立戦争の際にオスマン帝国に援軍を送ったにもかかわらず、その報酬がクレタ島とキプロス島のみであったのでこれを不満とし、シリアの領有を1831年オスマン帝国に要求した。オスマン帝国はこれを拒否したので、両国は開戦した(第1次エジプト=トルコ戦争 1831〜33)。この戦争の際、フランスは公然とエジプトを支援し、イギリスはオスマン帝国の援助要請を拒否した。オスマン帝国を支援したのはロシアで、ロシア軍がボスフォラス海峡付近に上陸すると、イギリスとフランスはオスマン帝国に圧力を加えてエジプトと和解させた。その結果、シリアと小アジア半島南部のキリキア地方がエジプトの統治下におかれたので、この処置にオスマン帝国は不満をもち、1833年ロシアとの相互援助条約であるウンキャル=スケレッシ条約 Unkiar-Skelessi を結んだ。しかし、この条約の秘密事項に、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡のロシア軍艦の独占通行権があるとして、イギリスは強く反発した。

イギリスとロシア、さらにフランスが地中海東部地域の主導権をめぐって対立を激化させ、フランスはエジプトに接近した。フランスの抜け駆けを阻止するために、イギリスはオスマン帝国に接近してその領土保全策に転じ、さらにロシアやオーストリア・プロイセンとも協議して同盟を結成した。1839年、再びエジプトとオスマン帝国の間に戦闘が勃発すると(第2次エジプト=トルコ戦争 1839〜40)、フランスは孤立化し、全面的なエジプト支援をあきらめざるをえなくなった。イギリス軍はオスマン帝国を支援してエジプト軍を破ったので、1840年のロンドン会議でエジプトはオスマン帝国の宗主権下に、エジプト統治の世襲権のみを与えられて独立が容認された止まり、シリアの領有は放棄させられた。この会議であらゆる国の軍艦の両岸海峡通過も禁止され、41年フランスも加わって五国海峡協定が結ばれ、ウンキャル=スケレッシ条約が破棄された。イギリスはフランスのエジプト進出とロシアの南下の両方を阻止することができたので、外交的主導権を掌握することになった(パーマストン外交の勝利)。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

ナポレオンのエジプト遠征

西アジアの動向 エジプト

エジプト
1798ナポレオンのエジプト侵入(〜99)
1805ワッハーブ派、メディナ占領
1805ムハンマド=アリー、エジプトの実権を握る
1818ムハンマド=アリー、ワッハーブ朝を滅ぼす
1822ムハンマド=アリー、東スーダンを征服
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1839第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1840ロンドン四国条約:ムハンマド=アリー、シリア放棄
1869スエズ運河完成
1875エジプト、スエズ運河会社の株式をイギリスへ売却
1876イギリス・フランス両国によるエジプトの財政管理
1881ウラービー運動(〜82):イギリス・フランス支配に抵抗するも失敗
マフディー運動(〜98):スーダンがマフディー国家樹立
1882イギリス軍、エジプトを占領、保護化
参考:山川 詳説世界史図録

1803年にイギリス占領軍が撤退すると、エジプトの支配権をめぐり、オスマン帝国の派遣軍・マムルーク軍人、そして市民勢力の間で争いがくりひろげられた。このなかで、オスマン帝国がエジプトに派遣したアルバニア傭兵隊の司令官であったムハンマド=アリー Muhammad Ali (エジプト総督、位1805〜49)は頭角を現し、1805年5月に、対仏反乱の指導権を握っていたウラマーや商人などカイロ市民の支持をえて、総督(ワーリー wali )につき、オスマン帝国もこれを追認した。

ムハンマド=アリー朝

ムハンマド=アリーは、権力を握ると、まずマムルーク軍人を計略を用いて殺戮さつりくし、これにかわり徴兵制を導入し、西欧式の軍事技術をとりいれた近代的軍隊を創設した。検地を実施し(1813〜14)、徴税請負制(イルティザーム)を廃止し農地からの直接課税をおこなった。灌漑施設の整備によって農地を拡大し、綿花をはじめとする商品作物の作付けを強制し、これを専売制によって廉価で購入し、内外に販売して利を稼いだ。また、織物をはじめ機械制の近代工場を設立するなど、富国強兵・殖産興業政策を推進した。このような政策に必要な人材の供給のため、お雇い外国人のほか、各種の専門学校や印刷所を設立し、ウラマーにかわる新知識人層が育成された。

対外政策の面では、新編制の軍を用いて海外派兵をくりかえした。1811年には、オスマン帝国スルタンの命をうけ、アラビア半島の聖地メッカを押さえるワッハーブ王国の討伐のため長子イブラーヒームを派遣し、首都ダルイーヤを陥落させた(1818)。続いて1818〜20年にはスーダンを征服し、奴隷交易をはじめ諸権益を独占し、エジプト近代化のための財源とした。

ムハンマド=アリー朝 オスマン帝国の領土縮小地図
カルロヴィッツ条約 オスマン帝国の領土縮小地図 ©世界の歴史まっぷ

ムハンマド=アリーは、このような遠征の成功によって自信を深め、1824年には、スルタンの要請に応えて、ギリシア独立戦争の鎮圧のためにペロポネソス半島へ出兵した。31年にはこの出兵の代償として約束されていたシリアの領有を要求して、シリアに遠征し、オスマン軍を破って北上し、西アナトリアまで侵入した。あわてたオスマン帝国側は、ロシア、そして英・仏の介入を要請し、33年キュタヒヤ条約 Kütahya を結び、ムハンマド=アリーにシリアの領有を認めた。39年には、オスマン帝国からの完全独立を求めて再び戦火が切られ、エジプト海軍はイスタンブルに迫った。1840年イギリス・ロシアなどがロンドン四国条約を結んでこれに介入し、英軍に敗れたムハンマド=アリーは条約の要求をのみ、総督職の世襲権とひきかえにシリアから撤退し、兵力は大幅に削減された。列強に対するこの敗北によっって、ムハンマド=アリーの富国強兵策は挫折し、また貿易の国家独占を改め、国内市場を解放することとなった。

オスマン帝国の改革

1821年にギリシア人を中心とした独立運動がおこると(ギリシア独立戦争)、鎮圧のためにスルタンはムハンマド=アリーに出兵を要請した。これに英・仏・露諸国が介入し、ナヴァリノの海戦 Navarino (1827)においてオスマン帝国と・エジプト軍を破り、1829年のアドリアノープル条約 Adrianople によって、ギリシアの独立が認められた。ムハンマド=アリーは、シリア領有を主張して2回にわたりオスマン帝国と戦火を交え、オスマン帝国は、33年にシリアを割譲したうえ、ロシアにダーダネルス海峡の自由通行を認めた。39年の第2次エジプト=トルコ戦争では、イスタンブルにエジプト艦隊が迫り、急逝したマフムト2世のあとをついだアブデュル=メジト1世 Abdülmecid I (位1839〜61)は、英・仏の支援をえるために「ギュルハネ勅令」 Gülhane を発布し、より徹底した改革をおこなう姿勢を示した。一連の改革はタンジマートと呼ばれる。

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