ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ (A.D.570頃〜A.D.632) イスラム教創始者。610年頃、唯一神アッラーから啓示を授けられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教に変わって、厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた。622年迫害から逃れるために、少数の信者を率いてヤスリブ(後のメディナ)へ移住(聖遷・ヒジュラ)し、ここにムスリムの共同体(ウンマ)を建設した。630年、メッカを無血征服し、カアバ神殿の偶像を破壊してここをイスラームの聖殿に定めた。
目次
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
一介の商人から預言者へ
イスラームの創始者。アラビア半島西部の都市メッカの生まれ。誕生前に父を、6歳の頃に母を失ったことから、孤児として祖父アブドゥル・ムッタリブ、その死後は叔父のアブー・ターリブの保護のもとで育てられる。25歳頃、15歳ほど年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚。それからしばらくは、シリアへの隊商交易に従事する商人として、不自由なく平穏な日々を送った。 いつの頃からか、ムハンマドはときおりメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけるのを習わしとした。40歳の頃、いつものように洞窟にこもり、ウトウトと微睡んでいたところ、突然、全身を押し潰されるような感覚に襲われた。そのとき彼の耳にこう聞こえた。「詠め、創造主なる主の御名において。いとも小さな凝血から人間をば創りなしたもうた。詠め、汝の主はこよなくありがたいお方。筆持つすべを教えたもう。人間に未知なることを教えたもう。」 ムハンマドは最初、自分はジン(霊鬼)に取り憑かれたのではないかと恐れた。そこで、急ぎ山を下りると、我が身に起きた出来事を洗いざらい妻に打ち明けた。すると妻はムハンマドを慰め励ますかたわら、従兄弟でキリスト教徒のワラカのもとへ連れていった。 詳細を聞いたワラカは、「それは神の啓示にほかならず、あなたは神に選ばれたのだ」と説明した。それを聞いて安心したのか、ムハンマドは少しずつ預言者としての自覚を抱くようになった。ヤスリブ移住:メッカからヤスリブへの移住は西暦622年のことで、イスラームはこの出来事をヒジュラ(西遷)と呼び、この年をイスラーム暦の紀元としている7月16日が元旦である。
迫害から逃れついにメッカを征服
数年後、ムハンマドは公然と布教をはじめる。しかし、唯一神アッラーへの信仰、ムハンマドを預言者として認めること、偶像崇拝の禁止、人間の平等性などを説くその教えは、当時メッカの人々が信じていた多神教とは明らかに対立するものだった。そのため、ハディージャとアブー・ターリブが相次いで没し、庇護者がいなくなるとともに、ムハンマドとその信者たちに対して迫害が始まる。 身に危険が迫るに至り、ムハンマドはひそかに全信者をヤスリブ(サウジアラビア。のちのメディナ)へ移住させた。そので信仰共同体(ウンマ)を築き、またユダヤ教徒と決別するなどして体制を整えるとともに、しばしばメッカ側と戦火を交えた。この戦いはムハンマドの勝利に終わり、630年、メッカに入城したムハンマドは、カーバ神殿に入ると、そこに祀られていた全ての偶像を破壊した。ジャーヒリーヤ(無明)時代が終焉したことを示したのである。 メッカへの大巡礼を果たした後、その生涯を閉じた。礼拝の方向:当初、ムハンマドはエルサレムに向かって礼拝を行っていた。しかしヒジュラ後、イスラームとユダヤ教の間に大きな違いがあることに気づくと、メッカの方向へと改めた。
預言により、唯一全能神「アッラー」の教えを広める
6世紀中頃、アラビア半島は交易で賑わっていた。ササン朝ペルシアと東ローマ帝国との戦乱により、シルクロードが敬遠されたからである。こうした状況で急成長した都市のひとつがメッカ。ムハンマドは、メッカの裕福な商家(ハシーム家)に生まれた。生前に父親を、幼くして母親を失ったムハンマドは、祖父や伯父に育てられた。 25歳で未亡人ハディージャと結婚。不自由のない生活の中でムハンマドは瞑想に耽るようになった。40際のとき、メッカ郊外の洞窟で大天使ガブリエルから神の啓示を聞く。「唯一全能の神アッラーの教えを広めよ」と。 ムハンマドは、「神への絶対帰依 (イスラーム)」「神の前での万人平等」を説き、イスラーム教を創始した。 支配層を批判したムハンマドは迫害を受け、北方のヤスリブに聖遷(ヒジュラ)した。ここをメディナ(預言者の町)と改称、この622年をイスラム紀元元年とした。イスラームの経典は「コーラン」。格調高いアラビア語で、ムハンマドに預けられた神の言葉が語られている。 イスラーム教信者は飛躍的に増加。ムハンマドは強大な信仰共同体(ウンマ(イスラム))を設け、敵対者と戦った。 征服した部族には改宗を勧め、イスラームはアラビア半島全体に広まった。アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったメッカも征圧、ここにアッラーの神殿を設けた。ムハンマドはメディナに戻って没した。死後イスラームは世界三大宗教に成長し、世界史を動かす大きな力となった。イスラーム教徒(ムスリム)には、六信(アッラー・天使・啓典・預言者・来世・天命を信じること)を五行(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼を行うこと)が義務付けられている。
先に啓示を信じた妻
ムハンマドの妻ハディージャは、15歳年上。2回の結婚でいずれも夫に先立たれている。洞窟で啓示を開いたムハンマドは、霊鬼に取り憑かれたと恐れ、山を駆け下りて妻に相談した。妻の励ましと支えで、ようやく啓示を信じたという。イスラーム世界の拡大地図

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
預言者ムハンマド
アラビア半島の大部分は砂漠におおわれているが、南部のイエメン地方は降雨に恵まれた肥沃な農業地帯に属し、また西側のヒジャーズ地方は交易によって成り立つオアシス都市が点在していた。 セム語系のアラブ人は、半島の南部や各地のオアシスを中心に、古くから羊、ラクダを飼養する遊牧生活を送り、小麦やナツメヤシを栽培する農業生活を営んできた。 しかし6世紀後半になると、アラビア半島にも新しい歴史の変化がおよびはじめた。
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(570頃〜632)は、メッカの名門であるクライシュ族のハーシム家に生まれた。
クライシュ族:ムハンマドの没後は、歴代のカリフをこのクライシュ族の子孫のなかから選ぶことが慣例となった。
幼くして孤児となったムハンマドは祖父や叔父に育てられ、25歳のころに商売を営む富裕な未亡人ハディージャと結婚した。

最後の預言者
イスラームの教えによれば、人類は元来ひとつの共同体であったが、争いによって分裂してしまった。そこで神は各々の共同体に預言者を遣わし、人々を正しい道に導こうとした。アダム・ノア・アブラハム・モーセ・ダヴィデ・ソロモン・イエスなどがこれらの預言者に相当し、ムハンマドは最後に現れた最も優れた預言者であるとされる。参考
戦争
- バドルの戦い
- 624年3月17日 イスラム創成期におけるクライシュ族率いるメッカと、メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナ側の間の戦いの転機となった戦い。圧倒的に不利とされたムハンマドが戦いに勝利し、ムハンマドは危機を乗り越えたことでメディナ内での権威を確立した。以後イスラーム徒はこれを記念しこの月(9月-ラマダーン月)に断食をするようになった。
- ウフドの戦い
- 625年 バドルの戦いで多くの戦死者を出したメッカは報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は戦闘前に離反者(メッカ軍の画策)を出して不利な戦いをしいられ、メッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗しムハンマド自身も負傷した。これ以後、ムハンマドは組織固めを強化し、メッカと通じていたユダヤ人らを追放した。
- ハンダクの戦い (塹壕の戦い)
- 627年 メッカ軍と諸部族(アラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵を集め、更にムハンマドによって追放されたユダヤ教徒を加えた)からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。ムハンマドは当時はまだアラビアにはなかった塹壕を掘って敵軍を防ぐ戦術をとりメッカ軍を翻弄した。さらに策略を持って敵軍を分断し撤退させることに成功した。塹壕のことをアラビア語でハンダクと言うため、この戦いはハンダクの戦いと呼ばれる。メッカ軍を撃退したイスラム軍は武装を解かず、そのままメッカと通じてマディーナのイスラム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲襲撃し、この攻勢に耐えかねて無条件降服した彼らの内、戦闘に参加した成人男子を全員処刑して虐殺し、女性や子供は捕虜として奴隷身分に落とさせ、彼らの財産を没収させた(クライザ族虐殺事件)。
- フダイビーヤの和議
- 628年 メッカと停戦
- 停戦が敗れる
- 630年 メッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてメッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍にメッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
岩のドーム

同時代の人物
蘇我馬子(?〜626年)
飛鳥時代の重臣。天皇を完全に操り、言うことを聞かない天皇を暗殺。仏教の受け入れや外交に積極的だった。その死後の4年後、遣唐使が始まる。