モリソン号事件
モリソン号(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

モリソン号事件


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モリソン号事件 A.D.1837〜

漂流民返還と通商交渉のために来航したアメリカ船モリソン号(イギリス船と誤解)が、会津の浦賀と薩摩の山川で異国船打払令のために砲撃された事件。浦賀では浦賀奉行所が砲撃した。

モリソン号事件

1837年、漂流民返還と通商交渉のために来航したアメリカ船モリソン号が、会津の浦賀と薩摩の山川で異国船打払令のために砲撃された事件。浦賀では浦賀奉行所が砲撃した。

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天保8(1837)年日本漂流民7名を伴い対日通商と布教を目指して浦賀に来航したアメリカ船『モリソン』号(当時はイギリス船とされていた)が、日本側の砲撃を受けて退去した事件。広東のアメリカ商社オリファント社の計画で、船長は D.インガソル。6月28、29日の砲撃で江戸湾を退去、次いで薩摩山川にいたり再度砲撃を受けてむなしくマカオに帰った。砲撃は異国船打払令によるものであった。この事件の際、江戸幕府の排外政策を批判した高野長英、渡辺崋山らが蛮社の獄で処罰を受けた(ただし長英は、イギリスの亡き東洋学者 R.モリソンと、この船の名とを混同していた)。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近

欧米列強の勢力が日本近海に迫っているときに、この強硬策は、きわめて危険な政策であった。1837(天保8)年、外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し、退去させた。翌年、オランダ商館長は、外国船はイギリス(実はアメリカの商船で誤って伝えた)のモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も問わずに打ち払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論しんきろん』を陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英(1804〜50)は『戊戌夢物語ぼじゅつゆめものがたり』を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の打払い政策を厳しく批判した。幕府は、1808(文化5)年の白河・会津両藩による江戸湾防備の体制をすでに廃止していたが、モリソン号事件を契機に再び江戸湾防備の検討を始めた。幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵たんあん 1801〜55)と洋学に反感をもつ目付の烏居耀蔵とりいようぞう(1796〜1873)に別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋礫もあって鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していたとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で、渡辺華山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処した。これを蛮社の獄と呼んでいる。

モリソン号はアメリカの帆船であったが、渡辺崋山らは、船名のモリソンを著名な英人学者のことと誤解していた。 山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

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列強の接近と幕府の対応

徳川列強の接近元号幕府の対応
家治1778〜79ナタリア号が、蝦夷地に来航
(通商を求めたが松前藩は拒否)
天明1783工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用
1784田沼意次による蝦夷地開拓を計画
1786最上徳内を蝦夷地へ派遣
家斉1792使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求
(幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる)
寛政1792林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰
1798近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる)
1799東蝦夷地を直轄地とする
1800伊能忠敬、蝦夷地を測量
1804使節レザノフ、長崎に来航
(通商を要求するが、幕府は拒絶)
文化

文政
1806文化の撫恤令(親水給与令)
1807松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査
1808
フェートン号事件
(英軍艦フェートン号、長崎に侵入)
1808間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見)
1810白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる
1811ゴローウニン事件
(露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁)
1813高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放
1821蝦夷地を松前藩に還付
1824英船員、大津浜に上陸(常陸)
英船員、宝島に上陸(薩摩)
1825異国船打払令(無二念打払令)
1828シーボルト事件
家慶1837モリソン号事件
(米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される)
天保1839蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰)
1842〜42アヘン戦争
(清が英に敗れ、南京条約を締結)
1842天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和)
1846米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航弘化

嘉永
1844オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶)
家定1853米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。1846ビッドルの通商要求拒絶
1853使節プチャーチン、長崎に来航1853大船建造の禁を解く
1854日米和親条約日露和親条約・日英和親条約締結
1855日蘭和親条約締結
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
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