ユダヤ人
ユダヤ人のディアスポラの地図 ©Public Domain

ユダヤ人


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ユダヤ人

ユダヤ教を成立させた以降のヘブライ人イスラエル人に対する呼称。現在のイスラエルの法では、ユダヤ人とは、ユダヤ人の子・孫か、ユダヤ人と結婚、またはユダヤ教に改宗した人と定義されている。

ユダヤ人

ユダヤ教を成立させた以降のヘブライ人・イスラエル人に対する呼称。現在のイスラエルの法では、ユダヤ人とは、ユダヤ人の子・孫か、ユダヤ人と結婚、またはユダヤ教に改宗した人と定義されている。

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オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

ヘブライ人とユダヤ教

紀元前538年にアケメネス朝キュロス2世バビロニアを占領したとき、ユダヤ人は帰国を許されたが、彼らはその後も長い間、異民族の支配のもとで辛酸をなめねばならなかった。

王国時代には周辺民族の多神教の影響をうけて、預言者たちに厳しく批判されたが、亡国とバビロン捕囚という民族的苦境のなかで、かえってヤハウェへの信仰は強まり、やがて神と契約しているユダヤ人だけが救済されるという排他的な選民思想や、この救済を実現する救世主(メシア)の到来を待望する信仰が生まれた。『旧約聖書』の編纂が始まったのもこのころからである。ユダヤ人は捕囚から開放されて帰国すると、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、儀式や祭祀の規則を定めてユダヤ教を確立した。 のちにユダヤ教が、信仰や日常生活の規則である法律を極端に重んじるようになると、イエスが現れて、形式化した信仰に新しい生命を吹き込むとともに、救済をユダヤ人に限らず全人類に及ぼす道を開いた。

アッシリアは多くのイスラエル人を北シリアやアッシリア本国へ強制移住させたあとに、よその住民をイスラエルに移した。新移住者は残っていたヘブライ人とやがて混血し、本来のヘブライ人とは異質の宗教・文化をもつサマリア人と呼ばれる民族になった。それに対しユダ族を中心とする人々は、バビロン捕囚中も帰国後も、民族的伝統を失わなかった。ここからその後のヘブライ人を「ユダヤ人」、宗教を「ユダヤ教」と呼ぶ習わしがおこった。
アケメネス朝

服従した異民族に対しては、バビロニアに捕らわれていたユダヤ人の処置にみられるように、それぞれの伝統・文化を尊重し自治を認めるという、寛容な政策をとった。

この世では善(光明)の神・アフラ・マズダーと悪(暗黒)の神・アーリマンが絶え間なく戦っているが、最期に悪は敗北し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判をへて救済されるとした。ユダヤ人はここから二元論的終末論を採用し、のちにそれはキリスト教にも受け継がれた。

ローマ世界

キリスト教の成立

キリスト教が生まれたパレスチナではヘブライ人が一神教を守り続け、それは紀元前6世紀ころユダヤ教として確立した。これはユダヤ人の民族宗教で、彼らは強国の支配のもとでも信仰を守り、民族としての一体感を失わずにヘレニズム時代には一時独立し、やがてローマの属州となったが、ヘロデ王の時にはローマに服属する王国となっていた。

キリスト教の発展

最初のキリスト教徒たちは神の国と到来が近いと思っていたが、それは実現ぜず、彼らはイエスの教えを他のユダヤ人に伝道し始めた。

キリスト教徒ははじめはユダヤ人が多く、礼拝や生活面ではユダヤ教のしきたりを守っていた。しかしユダヤ教徒は彼らへの敵意を強め、キリスト教の成立直後からしばしば迫害を行なった。

ローマ帝国の広い地域に居住していたユダヤ人は、しばしは異邦人と衝突をおこし、ローマ市から追放されることもあった。しかし帝国はユダヤ人には税を課して軍役などを免除して、彼らの宗教を一応認めていた。だから一般に彼らへの反感はあっても迫害が長期にわたることはなかった。

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

封建制・荘園制の崩壊
ペストの流行都市の恐怖

12世紀を中心とする前後200年のヨーロッパは、農業的高度成長の時代であったが、それを支えた農業技術の革新も限度に達し、13世紀半ばには開墾運動が沈滞するようになった。穀物生産も伸び悩み、人口増加による穀物価格の上昇は、14世紀以降の人々を慢性的な栄養失調状態に陥れた。そこにペストの大流行である。人々はペストの格好の餌食となった。日常化する死のなかで、人々は死の恐怖を増幅させた。そうした恐怖のなかで、人々はさまざまな祈願・祈祷を行った。

なかには、十字架と革ひもを手にして行進し、聖歌を歌いながらはだけた上半身を鞭打つ苦行者の群れも見られた。あるいは、南フランスやライン沿岸の諸都市では、ペストの流行をユダヤ人の仕業と考える人々により、ユダヤ人の虐殺が行われた。また、絵画や彫刻の主題にも死がとりあげられ、墓地のフレスコ画などに「死者の舞踏」「死の勝利」が描かれた。イタリア・ルネサンスが人間の生を追求したのも、死と隣り合わせの時代であったからだということもできる。

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

スペイン絶対王政の確立

以後歴代国王は、ローマ・カトリック教会の勢力をも背景に、異端審問など厳しい宗教政策を展開した。1492年には、最後に残ったイスラーム教徒の拠点、ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、1492年にはユダヤ人、1502年にイスラーム教徒を、それぞれ追放した。数世紀におよんだ国土回復運動(レコンキスタ)が、ここで完成したということができる。

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

ドイツ
反ユダヤ主義

ユダヤ人の解放はフランス革命以来の課題であり、実際19世紀の西ヨーロッパではユダヤ系市民は職業選択の自由や参政権を獲得していった。その結果、ドイツのメンデルスゾーン家のような著名な音楽家や芸術家も輩出した。

しかし、他方では、進化論が社会思想や国家論に応用されて、国家や民族間の闘争においては、ある人種は他の人種に優越するという学説(社会進化論)が現れるようになった。その差別意識は帝国主義的侵略の犠牲となったアフリカの人々などにむけられたが、ナチス=ドイツに顕著にみられるように振興のユダヤ系大資本家への反発などと結びつくと人種論的反ユダヤ主義となった。他方、19世紀末のロシア・東欧では深刻な社会的危機の際に社会的異分子としてのユダヤ人に集団的暴行・虐殺を加える事件がおきた。ロシアではこれを、ポグロムと呼んでいる。農奴解放後のアレクサンドル2世暗殺直後、1905年のロシア革命第1次ロシア革命)前後、そして1917年のロシア革命とそれにともなう内戦の時期にポグロムは多発した。

フランス
ドレフュス事件事件

1894年秋、ユダヤ人の将校ドレフュスはドイツのスパイ容疑で逮捕され、軍事法廷により悪魔島への終身流刑の判決をうけた。ドレフュスがもとドイツ領のアルザス出身のユダヤ人であることが法廷の予断を生んだ。その後、真犯人はドレフュスの同僚の将校であり、軍が証拠を捏造したことが明らかになったにもかかわらず再審請求の道は開けなかった。1898年、作家のゾラが大統領宛に「私は告発する」の公開質問状を発表し、軍部の不正を告発すると、冤罪事件を主張する知識人・学生・共和派の政治家が結集した。これに対し、極右の国家主義者・反ユダヤ主義者・カトリック派などは国家の秩序と安定を優先して軍部の名誉を擁護した。こうして、ドレフュス事件は、真犯人探しというミステリー部分の解明は後景に退き、共和国の存立を問う事件となった。

1899年には軍法会議は再び有罪判決を下し軍部の権威を優先させた。しかし、大統領が特赦を与えて、ドレフュスを解放させた。だが、特赦はあくまでも政治的決着をはかったものであり、ドレフュスが最終的に無罪判決を勝ち取ったのは1906年のことであった。ドレフュス派対反ドレフュス派の対立は平和主義か軍国主義か、国際主義かナショナリズムかの争いとなり、これに反ユダヤ主義や共和国と教会の対立も加わって共和国の政治は激しく動揺したが、ドレフュスが再審を勝ち取ったことで軍の民主化や政教分離が進んだ。

日本で昭和前期に軍部の力が強まり言論統制が厳しくなる情勢のもとで、大佛次郎おさらぎじろうがこの事件をとりあげたように、今ではドレフュス事件は国家による冤罪と人権抑圧に抗したジャーナリズムの物語としてよく知られている。

二つの世界大戦

ついに1939年から第二次世界大戦に突入した。戦争はユダヤ人虐殺・南京虐殺・原爆投下など非戦闘員を巻きこむ大量殺戮を人類にもたらしつつ、連合軍がファシズム諸国に勝利して終結した。

第一次世界大戦とロシア革命

戦時秘密外交

1917年イギリス外相バルフォアはパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを認めた(バルフォア宣言) 。

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