ヨーロッパの火薬庫
20世紀初頭から第一次世界大戦までのバルカン情勢を形容したことば。オスマン帝国の弱体、バルカン諸民族の独立要求、帝国主義諸国の思惑などが集中し、一触即発の状況にあったため、こう呼ばれた。
ヨーロッパの火薬庫
20世紀初頭から第一次世界大戦までのバルカン情勢を形容したことば。オスマン帝国の弱体、バルカン諸民族の独立要求、帝国主義諸国の思惑などが集中し、一触即発の状況にあったため、こう呼ばれた。参考 世界史用語集
帝国主義とアジアの民族運動
世界分割と列強対立
バルカン半島の危機
バルカン問題:ナショナリズムと列強の思惑が複雑に交差するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。
1913年5月のロンドン条約で、オスマン帝国はイスタンブル周辺をのぞくバルカン半島のほとんどを割譲した。しかし、その割譲された領土の分配にあたりセルビアとブルガリアがマケドニア地方の領有をめぐって争った。ギリシア・モンテネグロばかりでなく、ルーマニアもセルビア側について参戦した(第2次バルカン戦争)。この戦争に敗北したブルガリアはマケドニアなどを失った。これ以後、ブルガリアとオスマン帝国はドイツへの依存を強めていった。このように列強の二極化がバルカン半島のナショナリズムを刺激し、バルカン半島での勢力変動が列強の対立をさらに深化させたので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
参考
61.列強の国際対立の激化

三国協商の成立とバルカン半島の緊張
1912年、ロシアの支持のもとに、セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ、領土拡張をねらってイタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がおこった。オスマン帝国は敗れたが、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアの他の3国との間で再び戦争が始まり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国・ルーマニアもブルガリアを攻撃した。ブルガリアは敗北して、ドイツ・オーストリアに接近した。こうして「ヨーロッパの火薬庫」バルカンでは、小国と大国の利害が、そして民主主義が複雑にからみあい、小国の紛争が容易に大国間の戦争につながる危険な情勢がつくられていった。
参考
バルカン問題

ナショナリズムと列強の思惑が複雑に交錯するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。図は、今にも噴きこぼれそうな大鍋(「BALKAN TROUBLES」)を必死で押さえようとする列強(前列左から露・独・墺・後左から英・伊)が描かれている1912年の風刺画。