ラタナコーシン朝 (チャクリ朝/バンコク朝 A.D.1782〜〜)
バンコクを都に建てられた現タイ王朝。建国者はアユタヤ朝滅亡後の混乱を収拾したチャクリ(ラーマ1世)。ラーマ4世やラーマ5世の近代化政策により、また英仏両国の緩衝地帯となったことなどにより独立を保った。1932年立憲君主制に移行。ラーマ9世は王権の回復を目指し、国王が国政に少なからぬ影響力を行使してきた。
ラタナコーシン朝
- バンコクを都に建てられた現タイ王朝。建国者は軍の指導者チャクリ(ラーマ1世)。西欧諸国の門戸開放の圧力が強まった19世紀にはモンクット(ラーマ4世)が列強と外交関係を結び、チュラロンコン(ラーマ5世)は近代化に努めて植民地化の危機をまぬがれた。
- ラーマ1世が開いたタイの現王朝。ラーマ4世やラーマ5世の近代化政策により、また英仏両国の緩衝地帯となったことなどにより独立を保った。1932年に立憲君主制に移行した。その後ラーマ9世(在位1946〜2016)は王権の回復を目指し、国王が国政に少なからぬ影響力を行使してきた。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝と東南アジア
コンバウン朝が清と争っている間に、アユタヤ朝滅亡後の混乱を収拾したチャオプラヤー・チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)は、1782年バンコクを首都としたラタナコーシン朝(チャクリー朝)を建国した。その後19世紀半ば以降、イギリスやフランスの圧迫をうけつつも独立を保ち、1932年に立憲王国となって現在にいたっている。
南アジア・東南アジア世界の展開
大陸部の諸国の興亡
アユタヤ朝を滅ぼしたミャンマー軍は、華僑を父としタイ人を母とする武将タークシン(鄭信 位1767〜1782)によって撃退された。彼はメナム川河口のトンブリーで王朝を開き(トンブリー朝)タイの再統一を果たしたが、部下に殺され、その後タークシンの武将チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)によって新王朝が創始された。これがタイの現王朝ラタナコーシン朝(チャクリ朝 1782〜)である。都がバンコクにおかれたためバンコク朝とも呼ばれる。このころ東南アジア諸国に軍事的進出を試みつつあったヨーロッパ勢力に対し、この王朝ははじめ閉鎖的政策で臨んだが、ラーマ4世(モンクット 位1851〜1868)の時代から開放政策に転じるにいたった。
アジア諸地域の動揺
南アジア・東南アジアの植民地化
大陸部の植民地化
タイ(シャム)は1782年以来バンコクに都をおくラタナコーシン朝(チャクリ朝, バンコク朝)の統治下にあった。この王朝は開明君主として知られるラーマ4世(モンクット, 位1851〜68)と、「大王」の称号を付して呼ばれるラーマ5世(チュラロンコン Chulalongkon, 位1868〜1910)の時代に、開国政策をつうじて国家の近代化を進めている。両王の治世は、フランスとイギリスによる東南アジア大陸部の植民地化が強行された時期にあたっていた。しかし、両勢力の緩衝地帯にあった幸運とたくみな外交政策とによって、領土の一部やラオス・カンボシア・マレー諸国に対する宗主権は失ったものの、東南アジアでは唯一の独立国として存続した。
歴代王
- ラーマ1世(プッタヨートファーチュラーローク) : 1782年 – 1809年
- ラーマ2世(プッタルートナーパーライ) : 1809年 – 1824年
- ラーマ3世(ナンクラオ) : 1824年 – 1851年
- ラーマ4世(モンクット/チョームクラオ): 1851年 – 1868年
- ラーマ5世(チュラロンコン): 1868年 – 1910年
- ラーマ6世(ワチラーウット/モンクットクラオ) : 1910年 – 1925年
- ラーマ7世(プラチャーティポック/ポッククラオ): 1925年 – 1935年
- ラーマ8世(アーナンタマヒドン) : 1935年 – 1946年
- ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート) : 1946年 – 2016年
- ラーマ10世(ワチラーロンコーン) : 2016年 –