ラーマ4世 Rama( A.D.1804〜A.D.1868)
ラタナコーシン朝第4代国王(在位1851〜68)。英・仏の勢力均衡をはかり、積極的な近代化政策をとってタイの独立を守った。1855年にイギリスと不平等なボーリング条約を結び、ほかの欧米諸国とも同様の条約を結ぶ一方、国王の中国貿易独占を廃して自由貿易政策をとり、諸制度の改革に取り組んだ。
ラーマ4世
ラタナコーシン朝第4代国王(在位1851〜68)。英・仏の勢力均衡をはかり、積極的な近代化政策をとってタイの独立を守った。1855年にイギリスと不平等なボーリング条約を結び、ほかの欧米諸国とも同様の条約を結ぶ一方、国王の中国貿易独占を廃して自由貿易政策をとり、諸制度の改革に取り組んだ。
タイ、チャクリー朝第4代の王(在位1851~68)。モンクット王とも呼ぶ。1855年イギリス=タイ友好通商条約(ボーリング条約)を結び、治外法権、不平等関税を認めながらも門戸を開放、続いて他の欧米諸国と同様の条約を結んだ。1852年ローマ教皇とナポレオン3世に国書を送り、西洋文明を受容しキリスト教布教を承認した。また外国人顧問を招き宮廷子女の西洋式教育を促進し、次王ラーマ5世の近代化政策の基礎を築いた。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
アジア諸地域の繁栄
南アジア・東南アジア世界の展開
大陸部の諸国の興亡
アユタヤ朝を滅ぼしたミャンマー軍は、華僑を父としタイ人を母とする武将タークシン(鄭信 位1767〜1782)によって撃退された。彼はメナム川河口のトンブリーで王朝を開き(トンブリー朝)タイの再統一を果たしたが、部下に殺され、その後タークシンの武将チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)によって新王朝が創始された。これがタイの現王朝ラタナコーシン朝(チャクリ朝 1782〜)である。都がバンコクにおかれたためバンコク朝とも呼ばれる。このころ東南アジア諸国に軍事的進出を試みつつあったヨーロッパ勢力に対し、この王朝ははじめ閉鎖的政策で臨んだが、ラーマ4世(モンクット 位1851〜1868)の時代から開放政策に転じるにいたった。
アジア諸地域の動揺
南アジア・東南アジアの植民地化
大陸部の植民地化
タイ(シャム)は1782年以来バンコクに都をおくラタナコーシン朝(チャクリ朝, バンコク朝)の統治下にあった。この王朝は開明君主として知られるラーマ4世(モンクット, 位1851〜68)と、「大王」の称号を付して呼ばれるラーマ5世(チュラロンコン Chulalongkon, 位1868〜1910)の時代に、開国政策をつうじて国家の近代化を進めている。両王の治世は、フランスとイギリスによる東南アジア大陸部の植民地化が強行された時期にあたっていた。しかし、両勢力の緩衝地帯にあった幸運とたくみな外交政策とによって、領土の一部やラオス・カンボシア・マレー諸国に対する宗主権は失ったものの、東南アジアでは唯一の独立国として存続した。