ラ=ファイエット La Fayette( A.D.1757〜A.D.1834)
フランスの軍人、政治家。貴族出身だが自由主義者で、アメリカ独立革命に参加し活躍。旧制度を批判、フランス革命時に三部会議員。人権宣言起草に参加、パリ国民軍司令官となるが、フーイヤン派の領袖として立憲君主制を主張して共和派と対立、1792年共和政樹立に際して亡命。1800年帰国後も自由主義的立場から反ナポレオン・反王政復古の態度をとり、1830年七月革命では再び国民軍司令官に推された。
ラ=ファイエット
フランスの軍人、政治家。富裕な武門の貴族出身で名誉心が強く、1777年アメリカ独立戦争に参加しG.ワシントンを助けて活躍、アメリカ、フランス両国から「新世界の英雄」とたたえられた。帰国して陸軍少将に昇進。87年名士会の代表として政界に乗出し、89年5月オーベルニュの貴族代表となって全国三部会に参加。同年7月憲法制定国民議会が成立すると、アメリカ独立宣言をモデルとする「人権宣言」の第1次草案を提出し、議会の副議長に選出された。バスティーユ攻撃のとき、パリ市民軍司令官となり、この軍隊を国民衛兵軍として組織した。90年7月シャン=ド=マルスの虐殺事件を指導、これがラ・ファイエットの人気と政治力の頂点であった。やがて議会内での彼の立場は、王党派からは革命派として、また急進派からは穏健派として攻撃されるようになった。サン=キュロットを弾圧し、立憲王政を主張してジャコバン派から離れ、91年フイヤン・クラブを結成。92年8月10日の革命により、軍団から指揮権を奪われ、彼の軍団も民衆側につき、議会からも追放された。アメリカ亡命を望んで国境を越えたが、オーストリア軍に捕われ5年間投獄された。99年執政政府が成立するとフランスに帰国。その後ナポレオン帝政に反対して引退したが、1815年百日天下の際、下院議員として公生活に復帰し、議会の副議長としてナポレオン1世の退位に指導的役割を演じた。30年の七月革命に再び国民衛兵司令官となりルイ・フィリップの立憲王政の樹立に尽力した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
貴族でありながら第三身分の側で活動
自由主義貴族で立憲君主主義者。人権宣言の起草者の一人としても知られる。アメリカ独立戦争ではパリ国民軍司令官として義勇軍を率いて活躍し「両世界(ヨーロッパとアメリカ)の英雄」と称えられた。革命初期には大きな影響力を持ったが、革命の激化とともに保守的とみなされるようになり亡命する。
欧米における近代社会の成長
アメリカ独立革命
戦争の経過とパリ条約
1777年、植民地軍はサラトガの戦いでイギリス軍に大きな勝利をおさめた。装備、訓練で劣っていた大陸軍に海外からフランスの若き貴族ラ=ファイエット、ドイツの軍人フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン、ポーランドの愛国者コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ ポーランド分割)などが義勇兵として参加した。シュトイベン男爵は厳しい規律できたえられたプロイセン軍の将校で、アメリカ兵のための軍事教練の教則書をつくり、実戦にも参加した。
ラ・ファイエット ワシントンの若き副官であった彼は、勝利したヨークタウンの戦場からフランスに「劇は終わった。第5幕がちょうど終了したところだ」と書き送った。
フランス革命とナポレオン
革命進展
8月26日、国民議会は自由主義的貴族のラ=ファイエット La Fayette(1757〜1834)らが起草した17条からなる「人権宣言」を採択した。正式には「人間と市民の権利の宣言」というこの宣言は、人間の自由・平等の権利、自由・財産の安全および圧政に対する抵抗の権利、国民主権、法の支配、言論・出版の自由、私有財産の不可侵など近代市民社会の基本原則を確認している。