ルイ14世(フランス王)
ルイ14世(イアサント・リゴー画/ルーヴル美術館蔵)©Public Domain

ルイ14世(フランス王)


ルイ14世(フランス王)( A.D.1638〜A.D.1715)

ブルボン朝第3代フランス王(在位1643年5月14日 – 1715年9月1日)。王権神授説を唱え、フランス絶対王政を確立。重商主義で国力を高め、宮廷文化を開花させる。治世の大半を侵略戦争に費やした。絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を20年かけて造営。

ルイ14世(フランス王)

フランス絶対王政を開始した「太陽王」

「太陽王」と呼ばれ、72年間王位に君臨したルイ14世(フランス王)は、誕生時も「天の賜物」と国民に歓迎を受けたという。ルイ13世(フランス王)と王妃アンヌ・ドートリッシュの、結婚後20数年にして初めての王子だったからだ。

その後、ルイ13世が41歳で崩御、ルイ14世は5歳に満たずに即位した。ところが彼が10歳のとき、フロンドの乱が勃発する。王権伸長に反対する高等法院(新興貴族)や、増税に苦しむ民衆が一斉蜂起したのだ。未熟な王の代わりに政治を司る、宰相ジュール・マザランの邸には石が投げ込まれた。反乱軍に占拠されたパリから、ルイ14世は危機一髪で逃れ、国内を転々とした。

5年後、乱が鎮圧されてからパリにもどったルイ14世は、乱を起こした高等法院を訪ね、「朕は国家なり」と恫喝したという。マザランが没すると、ルイ14世は己の力に頼る力ずくの親政を始めた。宰相を不要とし、貴族を退け、行政権を国王に集中した。

17世紀なかばのヨーロッパ地図
17世紀なかばのヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

重商主義を進めるが対外戦争と贅沢で財政破綻

能力ある者を、身分に関係なく起用する官僚システムをつくり、ジャン=バティスト・コルベールを財務総監に任命して重商主義を進めさせた。

そして、太陽をモチーフとしたバレエの衣装をつくり、自信を偶像崇拝の対象に仕立てていった。「王権神授説」に従い、自らを「神の代理人」と称し、ユグノー(新教徒)を国外追放、ナントの王令を廃止した。しかし商業従事者には新教徒が多かったため、反発だけでなく経済力の低下も招いた。

領土拡張と、そのための征服戦争は国王の役目と考えたルイ14世は、ヨーロッパ最大規模の常備軍を組織し、イギリス、オランダ、デンマーク、スペインと数々の戦争を戦った。しかし軍費と兵力を注ぎこんだ割には得た領土は少なく、財政破綻を招いた。

パリを嫌い、郊外のヴェルサイユに絢爛豪華な宮殿を建てたことも財政難に拍車をかけた。フランス絶対王政のもと、国力は上がったが、国民への税負担は苛酷なものになっていった。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿 Wikipedia

パリの南西約20㎞にあるヴェルサイユ宮殿。ルイ14世が建築した離宮で、広大な庭園はル・ノートルによる設計。世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」に登録されている。

ヴェルサイユ宮殿の庭園
ヴェルサイユ宮殿の庭園 Wikipedia
ヴェルサイユ宮殿の正面に立つルイ14世の騎馬像
ヴェルサイユ宮殿の正面に立つルイ14世の騎馬像 Wikipedia
ルイ13世(フランス王)がハゲ隠しでかつらを着用したのに対し、ルイ14世は少しでも身長を高く見せようとしてかつらを好んだという。ルイ14世の身長は160㎝ほど。ヒールの高い靴を愛用していたといわれる。
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官僚主義、中央集権化を徹底する

「太陽王」と呼ばれ、フランス絶対王政時代の頂点に立ったルイ14世は、幼少時に父を亡くし、1643年、王位に就いた。政治の実権は宰相のジュール・マザランと母后アンヌ・ドートリッシュが握ったが、王権の強化をはかる重税政策に対して貴族たちが不満を募らせ、1648年「フロンドの乱」が勃発。反乱はパリのみならず地方にまで波及し、市民の暴動や農民一揆にまで拡大してしまう。5年間続いたこの反乱の最中、ルイ14世も暴徒の襲撃をうけ、パリから脱出して国内を逃亡した。だがこの危機を乗り越えたことで貴族の力は弱体化し、王権は強固なものとなる。ルイ14世自身も、冷静に世の中を見る目を養ったといえよう。マザランが死んだ1661年、ルイ14世は23歳。政務を自分で取り仕切ろうと、親政を始めたのだ。

ルイ14世の治世は「朕はすなわち国家なり」であった。王の言葉はそのまま命令であり、法律、国家そのものなのだ。王権は神から与えられた「王権神授説」を唱え、官僚主義、中央集権化を徹底した。とりわけ財務総監コルベールが、重商主義を成功させた功績は大きかった。国内生産力を伸ばそうと、織物、陶器、ガラス、火薬など奢侈製品の育成に力を注ぎ、外国製品の購入を制限して国力をあげたのだ。同時に領土拡大を目指し、54年の親政のうちの34年を戦争に費やしている。

華麗なる宮廷文化と度重なる戦争のツケ

ヴェルサイユ宮殿 鏡の間
ヴェルサイユ宮殿 鏡の間 Wikipedia

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間。宮廷人や訪問者の待ち合わせや出会いの場となっていたという。

一方で、絢爛豪華な王朝文化を開花させた。20年の歳月をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した。大宮殿と水を駆使した庭園は、太陽王にふさわしい華麗な舞台であった。宮廷生活は細かく儀式化され、王の権威はさらに高められた。一時は数千人の従者や貴族、芸術家たちがここで寝起きしたというから驚きである。またコルネイユらラシーヌ、モリエール、ラファイエット夫人、シャルル・ルブラン、多くの文学者や芸術家のパトロンとなり、華やかな祭典や饗宴が連日のように繰り広げられた。

スペイン王女マリ・テレーズを王妃として迎えていたが、ラ・ヴァリエール嬢、モンテスパン夫人、フォンタンジュ嬢など、数多くの愛人をもった。なかでも妖艶なモンテスパン夫人は、公式寵姫の地位を得て大きな権限を手にした。だが黒ミサ事件が、命取りとなってしまう。彼女が毒殺魔の占い師ら・ヴォアザンの顧客であり、怪しげな儀式に参加したことが発覚。さらに多くの貴族たちの関与も判明し、宮廷の醜聞となったのだ。このスキャンダルで彼女の地位は陥落、代わってマントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ(マントノン夫人)が王の寵愛を得るのだった。彼女は、老詩人スカロンの妻で、夫の亡き後はモンテスパン夫人の子供の養育係を務めていた。地味だが賢く、熱心なカトリック信者であった。ルイ14世の信頼を得ると、王に敬虔な心を芽生えさせ、最後の愛人となった。王妃の死後、2人は秘密結婚した。そして「私が保証する。死ぬことはちっともむずかしいことではない」という言葉を彼女に遺し、ルイ14世は永眠した。

マントノン夫人
マントノン夫人(ピエール・ミニャール画/ヴェルサイユ宮殿蔵)©Public Domain

ルイ14世の後半生を共に過ごしたマントノン夫人。宮廷にあって地味ながら、知性と気品ある夫人は、正式な后とはならなかったため、「無冠の王妃」と呼ばれている。

76歳で大往生したルイ14世だが、晩年は奢侈や戦費がかさんで国庫は激減し、太陽のごとき王権もゆっくりと落日を迎えつつあった。

略年表

  • 1638年 フランスに生まれる
  • 1643年 母后と宰相の摂政開始
  • 1661年 ルイ14世の親政始まる
  • 1667年 フランドルに侵攻
  • 1672年 オランダ戦争勃発(〜78年)
  • 1682年 ローマ教皇に対する独立を認証する聖職者宣言
  • 1685年 ナントの王令を廃止
  • 1701年 スペイン継承戦争勃発
  • 1715年 死去
ヴェルサイユ宮殿 庭園
ヴェルサイユ宮殿 庭園 Wikipedia

ヴェルサイユ宮殿の見どころのひとつは、庭園。宮殿と同じくらい庭園を重視したルイ14世は、アンドレ・ル・ノートルに庭園設計を託した。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ルイ14世の政治

アンリ4世(フランス王)の次に登位したルイ13世(フランス王)(位1610〜43)は、1624年以降、宰相にリシュリュー(1585〜1642)を登用して貴族やユグノーの勢力を抑え、絶対王政を確立した。また、財政改革を推進したものの、他方では1614年以後全国三部会を招集せず、専制的な政治を展開した。

1643年、その子ルイ14世(フランス王)(位1643〜1715)が幼少で即位すると、政治の実権を握ったイタリア生まれの宰相ジュール・マザラン(1602〜1661)は、貴族や高等法院による反乱(フロンドの乱 1648〜1653)を鎮圧して、王権をいっそう強化した。ここにフランス貴族は無力化し、王権の装飾物のような存在となった。

ルイ14世(フランス王)
ルイ14世(イアサント・リゴー画/ルーヴル美術館蔵)©Public Domain

ルイ14世 その治世のもとでの宮廷や社交界から劇作家・思想家・芸術家が輩出し、古典主義文化の最盛期が現出した。

フロンドの乱

ブルボン家による絶対王政への貴族勢力の最後の反乱。ルイ14世の即位を機に、高等法院が反旗をひるがえし、宮廷は一時、パリを逃れたが、反乱は王党派のコンデ公によって鎮圧された。しかし、コンデ公はマザランと対立して失脚、コンデ軍がパリを支配したが、コンデ軍の背景にスペインが関与していることが判明したため、王党派がもりかえし、ついにパリを奪還、宮廷はパリにもどった。

ジュール・マザランの死後、みずから治世にあたるようになったルイ14世は「朕は国家なり」と称して王権神授説 絶対王政とは)を唱え、典型的な専制君主となった。貴族を宮廷に仕えさせ、官僚制とヨーロッパ最大の常備軍を整えるなど、その権勢はまさしく頂点に達し、彼は「太陽王」と呼ばれるようにもなった。

王はまた、商工業の育成をはかって、王権の財政基盤を確立することをめざした。この目的のために、マザランに登用された財政総監ジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)を重用して、王立マニュファクチュア(工場制手工業)を設立するなど、フランス独特の重商主義政策を推進した。

コルベール主義

コルベールが推進した諸政策は「コルベール主義」の名のもとに、フランス重商主義の代名詞となっている。国内に金・銀を多く蓄えることが経済繁栄の道と考えた彼は、国内に鉱山のないフランスとしては、輸出を増やし、輸入を減らすことで金・銀を獲得すべきだとした。このため、特権を与えてゴブラン織りなどのマニュファクチュアを育成し、保護関税政策を展開した。そのほか、造船、海運の奨励にも務め、植民地の確保をめざしたが、軍事支出には反対であった。

主権国家と絶対王政のしくみ図
主権国家と絶対王政のしくみ図 ©世界の歴史まっぷ

しかし、1685年にナントの王令が廃止されると、商工業者の中心を占めていたユグノーたちがイギリスその他の国に亡命し、フランス経済は深刻な打撃をこうむった。17世紀のフランスは、全体に人口も増えず、経済発展の点ではイギリスに遅れをとったとされている。

ヴェルサイユ宮殿
ルイ13世の小城館を改築した造営初期のヴェルサイユ宮殿 (Pierre Patel画-ヴェルサイユ宮殿蔵)©Public Domain

もともと狩猟のためのロッジであったが、ルイ14世は1661年に親政を開始すると、この離宮の大々的な拡張工事を命じた。図は1668年、ほとんど完成した姿の宮殿。

他方、文化の面では、ルイ14世の時代は歴史上もっとも華やかな時代のひとつとなった。華美を好んだ彼は、ヴェルサイユに華麗な宮殿を造営(ヴェルサイユ宮殿)し、サロンをつくって文学や美術を奨励したため、フランスがヨーロッパの中心となり、フランス語がヨーロッパの上流社会の共通語となった。

ルイ14世(フランス王)は、財政改革や重商主義政策によってえた経済力を背景に、軍制改革をおこない、ヨーロッパ最強ともいわれる軍隊をつくりあげた。この軍事力によって、彼はスペイン領ネーデルラントオランダへの侵略戦争をくわだてたが、イギリスなどが連携して対抗したため、大きな成果はなかった。

17世紀ヨーロッパの戦争と内乱地図
17世紀ヨーロッパの戦争と内乱地図 ©世界の歴史まっぷ
フランスの侵略戦争:1667〜1668年の南ネーデルラント戦争(フランドル戦争)、1672〜1678年にかけてのオランダ(侵略)戦争、1688〜1697年のファルツ戦争(アウクスブルク同盟戦争または九年戦争)などがある。

1700年には、孫のフェリペ5世(スペイン王)(位1700〜1724、1724〜1746)をスペイン王に即位させたことからスペイン継承戦争がおこった。この戦争で、イギリス・オーストリア、オランダなどが連合してフランスと対抗した。

1713年に締結されたユトレヒト条約では、フェリペ5世の王位は承認されたが、フランスとスペインの合同は認められなかった。逆にイギリスは、スペインからはジブラルタルなどを、フランスからは、カナダの一部やニューファンドランドなどを獲得することになった。そのうえ、こうしたたび重なる戦争でフランスの王室財政は、ルイ14世の末期にはしだいに悪化していった。また1714年には、ルイ14世と神聖ローマ皇帝との間でラシュタット条約が結ばれた。

ルイ14世の政治 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

同時代の人物

松尾芭蕉(1644〜1694)

江戸中期の俳人。伊賀上野国の武家に生まれるが、23歳で故郷を捨て俳諧師の道を歩む。旅に歩いて俳諧を詠んだ。「おくの細道」の旅に出たのは、死の5年前。

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