レザノフ N.P.Rezanov( A.D.1764〜A.D.1807)
露米会社の支配人。1804年アレクサンドル1世の遣日使節として津太夫ら4人の日本人漂流民を伴い、ラクスマンの持ち帰った信牌を持って長崎に来航。中国・オランダ以外とは通商しないのが祖法であると、幕府に通商要求を拒否された。
レザノフ
露米会社の支配人。1804年、アレクサンドル1世の遣日使節として津太夫ら4人の日本人漂流民を伴い、ラクスマンの持ち帰った信牌を持って長崎に来航。通商を要求したが、中国・オランダ以外とは通商しないのを祖法(先祖伝来の法)とするとして受け入れられず、翌年退去。
ギャラリー
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
1804(文化元)年、ロシア使節レザノフ(Rezanov 1764〜1807)がラクスマンのもち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めた。幕府は、朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは新たに外交・通商関係をもたないのが祖法であると拒否した。このときの幕府の対応は、杉田玄白 ❷ や司馬江漢らが批判したほど冷淡であった。レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的な圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、1806(文化3)年から翌年にかけてロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこった。とくに、択捉守備兵が敗走したことから国内は騒然とした雰囲気となった。
❷ 大国であるロシアに対して失礼な応対であり、しかもラクスマンへは貿易許可をほのめかしたにもかかわらず、レザノフへは拒否したのは約束違反ではないかと批判した(『野叟独語』)。