レンブラント
『自画像』(レンブラント画/ナショナルギャラリー蔵) ©Public domain

レンブラント


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レンブラント A.D.1606〜A.D.1669

17世紀のバロックを代表するオランダ(ネールランド連邦共和国)の画家、版画家および製図工。大画面と明暗を画面上に強く押し出した技法を得意とし、「光の画家」「光の魔術師」の異名を持つ。

レンブラント

オランダが生んだ17世紀最大の画家

大学を中退後、画業の道に入り、1632年の「テュルプ博士の解剖学講義」で流行画としての名声を確立。その後、大きな浮き沈みにもめげず、神話や聖書、古代史の物語に取材した物語画と肖像画を中心に、風景や風俗など、それぞれ約400点の油絵とエッチングおよび約1200点の素描という、質量ともに他の画家を大きくしのぐ作品群を残した。

代表さくは1642年、アムステルダムの市民自警団の依頼で描いた「フランス・バニング・コック隊長の射撃隊」という作品で、これは誤って「夜警」の名で知られている。

バロックとロココ

ルネサンスとマニエリスムに続き、ヨーロッパではバロックとロココが流行。バロックは16世紀末のイタリアで生まれた芸術様式で、イタリアのからヴァじょ、スペインのベラスケス、フランドルのルーベンス、フランスのプッサンなどを担い手とした。対してロココは、フランス絶対王政期に生まれた様式をいう。

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生前は認められなかった「光と影」の画家

オランダの製粉業者の子に生まれたレンブラントは、ライデン大学に入学するも、画家を志望して中退、アムステルダムで修行を積んだ。26歳で描いた「テュルプ博士の解剖学講義」で名声を得たレンブラントは、以後肖像画家として活躍した。肖像だけでなく、市井の生活や風物が描きこまれたもので、フランドル派に対してオランダ画派と呼ばれた。

ところが、やがてレンブラントの画境は深みと入っていき、独特の光線とそれによる明暗を強調する作風へと変化する。そのため一般の嗜好からずれることになった。市民警護隊から依頼されて描いた集団肖像画『夜警』は、あまりにも暗かったため、以後の依頼が途絶えてしまった。レンブラントハ貧困にあえぎながらも、生涯で油絵400点、素描類1200点以上を残す。現在では「光と影の画家」として西欧絵画史上に残る大画家として絶賛されている。

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『テュルプ博士の解剖学講義』

描かれているのは、ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面である。 死体は矢作り職人アーリス・キント(Aris Kindt)のもので、その日の午前、持凶器強盗の罪で絞首刑になった。 見学者の一部は、絵に描いてもらう代金を支払った医者たちである。
日付は、1632年1月16日にまで遡る。 テュルプ博士が市制解剖官を務めていたアムステルダム外科医師会では、年に1体、処刑された犯罪者の遺体を使った公開解剖が認められていた。

17世紀における解剖学講義は社交イベントであった。 実際、解剖劇場(anatomical theatre)と呼ばれる公開専用の講義室が設けられ、学生や同僚の博士、一般市民が入場料を支払って見学した。 見学者は、厳粛なる社交イベントにふさわしい服装を着用することが求められた。 後側と左の人物像を除いて、これらの見学者が後から絵に描き加えられたと思われる。

1人、講義のための遺体を準備する係員が見当たらない。 17世紀、テュルプ博士のような高い地位にある科学者は、解剖のような卑しく血なまぐさい作業にはかかわらず、他に回されていた。 このため『テュルプ博士の解剖学講義』にも、解剖そのものは描かれていない。 代わりに、右下の隅に、巨大な解剖学の教科書が開いて置かれている。 これはおそらく、1543年にアンドレアス・ヴェサリウスが著した『ファブリカ』こと『人体構造論』(De humani corporis fabrica)であろう。

医学の専門家は、26歳のレンブラントが描いた筋肉や腱の正確さに触れている。 レンブラントがこの知識をどこで得たかはわかっておらず、解剖学の教科書から詳細を写し取った可能性がある。 しかし2006年、オランダの研究者が男性の遺体を使って場面を再現したところ、レンブラントが描いた左前腕に、実際の遺体と比較して矛盾する点のあることが明らかになった。

浅指屈筋が外側上顆から起こっている。外側上顆は伸筋の起始であり、浅指屈筋は内側上顆から起こることが正しい。この左右の逆転は通常の解剖図や解剖の教科書は右手が書かれることが通例なので、レンブラントが右腕の解剖図を見て、それを左手に当てはめてしまった可能性が考えられる。

死体の顔には、一部影がかかっている。 これは「 umbra mortis 」(死の影)と呼ばれ、レンブラントがしばしば使用した技術である。 絵には左上の隅にサインがあり、「 Rembrandt f 1632 」と書かれている。 これはレンブラントが自分の名を絵に署名した最初の例であり、イニシアルのみのサイン「 RHL 」(Rembrandt Harmenszoon, Leiden 、ライデンのレンブラント・ハルメンスゾーン)とは対照的である。 彼の芸術的評価が高まってきていた証であろう。 その他、「デイマン博士の解剖学講義」と言う作品の存在もあったがこちらは火災により現在は残っているのは絵のごく一部のみである。しかしレンブラントの残したラフが存在し、消失した絵の全体像を今でも知る事が出来る。

レンブラント
『テュルプ博士の解剖学講義』(1632年-レンブラント:画) マウリッツハイス美術館蔵 ©Public domain

『夜警』

この絵画は次の三つの要素のために有名である。まずその巨大さ(縦3メートル63センチ、横4メートル37センチ)、次に光と影の効果的な使用、そして当時は不動の姿勢で描かれた軍隊や自警団の集団肖像画に動きの要素を取り入れたことである。

『夜警』はオランダ黄金時代の絶頂期であった1642年に完成した。この絵は題名となった市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)が出動する瞬間を描いている。黒い服に隊長の印である赤い飾り帯を斜めにかけたフランス・バニング・コック隊長と、その右横の黄色の服を着たウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長は隊を率いて動き出そうとし、その周辺では銃に火薬を詰める隊員や銃を構える隊員が銃の技量を示し、鼓手がドラムを構え、後ろでは旗手のヤン・フィッシェル・コーネリッセン(Jan Visscher Cornelissen)が隊旗を掲げている。一斉に人々が動き始めたため、その下では犬が吠えたて、左には少年が走り回っている。各隊員はそれぞれ異なった方向に体を向け、多様な表情を見せており、隊員の動きが交錯して画面に興奮を生み出している。いずれも体の一部分しか画面に映されておらず、全身が描かれているのは3人のみである。

レンブラントはキアロスクーロ(明暗法)を用いて群像にドラマチックな表情を与えた。強い日光が斜め上から差し込み影を作ることで、レンブラントは群像の中から3人の主要人物、すなわち中央の隊長と副隊長、そして中央左奥の少女を浮かび上がらせている。

レンブラントは火縄銃手組合の象徴物をさりげなく画面に配している。黄色いドレスの少女は隊のマスコット的な存在であったが、彼女の帯にぶら下がった鶏の爪は火縄銃手(clauweniers)の象徴である。死んだ鶏は打ち倒された敵の象徴でもあり、黄色は勝利の色でもある。鶏の後ろの銃も火縄銃隊を象徴する。また彼女は自警団の盃(ゴブレット)を持っている。彼女の前の人物はオークの葉のあしらわれた兜をかぶっているが、これは火縄銃手の伝統的な主題(モチーフ)である。

レンブラント
『夜警』(1642年-レンブラント・ファン・レイン画) アムステルダム国立美術館蔵 ©Public domain

1642年作の縦3mを超える大画面は、見るものを圧倒する。火縄銃組内(市民自警組織)の人々を描いた集団肖像画。画面があまりにも暗かったので、夜を描いたものと勘違いした18世紀以降の人間によって「夜警」というタイトルがつけられたという。黄金に輝く光と影によって、劇的な人間ドラマに仕上がっている。(ビジュアル 世界史1000人(下巻)

レンブラントの作品を所蔵する美術館

『夜警』『ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)』などがあるアムステルダム国立美術館、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、ベルリンの絵画館、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館、パリのルーヴル美術館、他にニューヨーク、ワシントンD.C.、ストックホルム、カッセル等

同時代の人物

中江藤樹(1608〜1648)

儒学者。少年の頃は朱子学を学び、成長後は陽明学に没頭。儒学と医学を講じて多くの門人を養成した。なお幕府は1639年(寛永16)に鎖国体制を完成させた。

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