四月テーゼ レーニン
レーニン(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

レーニン


レーニン Lenin( A.D.1870〜A.D.1924)

ボリシェヴィキの主導者。ソヴィエト連邦を建設。第1次ロシア革命挫折後スイスに亡命、二月革命後の4月に帰国。四月テーゼを発表、国家権力をソヴィエトに移すことを主張。ケレンスキー政権を倒し(ロシア十月革命)社会主義政権を樹立。

レーニン

  • ロシアの社会主義者・革命家。ボリシェヴィキを率いて1917年の十月革命(十一月革命)を主導した。
  • ソヴィエト連邦を建設したボリシェヴィキの主導者。第1次革命挫折後スイスに亡命したが、二月革命後の4月に帰国した。ペトログラードで「四月テーゼ」を発表し、国家権力をソヴィエトに移すことを主張。ボリシェヴィキを率いてケレンスキー政権を倒し(十月革命)、社会主義政権を樹立した。
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理解するのに一週間かかった

「全権力をソヴィエトに!」二月革命勃発を受け12年ぶりの帰国を果たしたレーニンは、ボリシェヴィキの面々に訴えた。第一次世界大戦継続を支持するブルジョワ的な臨時政府は倒さねばならない、戦争は即刻中止、すべての土地は国有化せよ。のちに「四月テーゼ」と呼ばれるこれらの主張に、ほとんどの者は耳を疑い、残りの者は肝を潰したという。長い亡命生活が天才レーニンを狂わせたのだ、と信じる者すらいた。テーゼは13対2で否決。だが一週間後には賛否が逆転し、3週間後にはボリシェヴィキの正式な革命戦略・戦術として採択される。

1917年11月、武装蜂起。臨時政府を倒したレーニンは翌年ドイツと和平を結ぶ。ボリシェヴィキは共産党に改称し、首都をペトログラードからモスクワへ移した。その年の後半には共産党の一党支配体制を確立、土地の無償没収と農民への分配、工業や銀行、貿易の国営化や国家管理化が進められてゆくのである。

封印列車:レーニンは亡命先スイスから、ロシアが交戦中のドイツを列車で通過して帰国した。ドイツはレーニンの帰国がロシアに混乱を招くと考え途中乗降禁止を条件に通過を許可した。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

帝国主義
帝国主義

19世紀の最後の25年間くらいに顕著になった帝国主義的膨張という現象は同時代に批判的・科学的に解明され、帝国主義論の系譜として現在にうけつがれている。

スイスに亡命中のレーニンは、第一次世界大戦中の1916年『帝国主義論』を書き、帝国主義とは資本主義の最高段階であり、大戦は投資の機会を追求すべくしいられた帝国主義列強の世界再分割の過程であると論じた。「帝国主義とは、独占と金融資本の支配が具体化する発展の段階にある資本主義のことである。この発展段階において、資本の輸出は明確な重要性をおび、国際トラストによる世界の分割が開始され、資本主義大国によって地球の全領土の分割が開始され、資本主義大国によって地球の全領土の分割が完成された」。このように定義されたレーニンの帝国主義論は日本の歴史教科書の記述にも大きな影響をおよぼしてきた。

同時代の古典的定義に対しては、① ドイツをのぞいて、銀行と重化学工業、軍部と民間の植民地団体とが協働して政府に影響力を行使した明白な証拠は見当たらない、② イタリアの場合がそうであるように、経済発展の規模と帝国主義的行為との間の関係は必ずしも合致しない、③ 新しく獲得された植民地は天然資源も乏しく、商品や資本輸出にも不向きで、むしろ経済的には魅力的なものではなかったなどの批判点が指摘されている。なかでもロビンソンとギャラガーの「自由貿易の帝国主義」論は古典理論批判の代表的なものである。それによれば、ヴィクトリア朝中期の自由貿易の時代にもすでに外交政策を通して「非公式」の、安上がりの帝国主義支配がおこなわれていたのであって、市場や資源獲得競争の激化の結果、現地の直接支配をめざす「公式」の帝国主義に移行したとされる。

一方、ドイツの社会構造史派のヴェラーは、ドイツの対外進出を、工業化と不均等な経済発展が生みだした国内の深刻な社会対立や政治的急進化に直面したドイツの政治指導者たちが、対外膨張政策へと国民の一体化をはかり、必要な国内改革を先送りするためにとった意図的な政策だったという観点から論じている。これは「社会帝国主義」論と呼ばれ、ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策の説明にも用いられている。

以上のように「中心」としてのヨーロッパからではなく、ラテンアメリカなどの「周辺」から論ずるフランク・アミンらの「従属理論」、それにウォーラースティンの「世界システム論」はグローバルな観点から世界資本主義の構造として帝国主義を論じている。

ロシア

20世紀初頭ロシア経済を不況が襲うなか、農奴解放令が実施されてからほぼ40年ぶりに激しい農民運動が現れた。南ロシアの工業都市では労働者がストライキをおこした。知識人や学生の間でも専制体制への批判は強まり、政治党派の組織化が始まった。社会変革の思想としてマルクス主義を標榜ひょうぼうするプレハーノフ Plekhanov (1856〜1918)らの動きは1880年代に現れたが、ロシア社会民主労働党の実質的な結党は1903年にロンドンとブリュッセルでおこなわれた。この大会で党の組織論をめぐってボリシェヴィキ Bolsheviki (レーニンを指導者とする)とメンシェヴィキ Mensheviki (マルトフ Martov 1873〜1923 を指導者とし、やがてプレハーノフも合流した)に分裂した 。一方、ナロードニキの運動をうけつぎ農民社会主義を追求し、テロリズムを容認する社会革命党(社会主義者革命家党、またはエスエル)は1901年に結成された。

ボリシェヴィキは多数派、メンシェヴィキは少数派を意味する。ボリシェヴィキは党を労働者・農民を基礎に少数の革命家集団からなる前衛党とし、メンシェヴィキは西欧的で大衆的な労働者党をめざした。
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同時代の人物

寺内正毅 (1852〜1919)

「ビリケン宰相」と呼ばれた総理大臣。レーニンが四月テーゼを発表した翌年、シベリア出兵を宣言。だが米騒動の責任をとって9月には総辞職した。

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