ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)
ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)


ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝) Wilhelm I( A.D.1797〜A.D.1888)

プロイセン王(在位1861〜88)、初代ドイツ皇帝(在位1871〜1888)。軍備拡張をめぐる政府と議会下院との対立の際、ビスマルクを首相に登用し、軍制改革を強行してドイツ統一を実現した。

ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)

プロイセン王(在位1861〜88)、初代ドイツ皇帝(在位1871〜1888)。軍備拡張をめぐる政府と議会下院との対立の際、ビスマルクを首相に登用し、軍制改革を強行してドイツ統一を実現した。

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ビスマルク、モルトケとともにドイツを統一

長く軍人を経験していたヴィルヘルム1世は、兄のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が精神を病んだため、61歳で摂政になり、その3年後にプロイセン王に即位した。プロイセンによるドイツ統一が大命題と考えたヴィルヘルム1世は、大モルトケを参謀総長に、ビスマルクを首相に任命し、軍備拡大を図った。
普墺戦争、普仏戦争では自ら陣頭に立って、勝利を引き込んだ。オーストリアを排除してドイツ統一に成功。占領したフランスのヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国皇帝の戴冠式を行った。ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)とビスマルクは、よく政策について対立したという。しかしヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)はビスマルクを信頼し、内政外交の実務を任せていた。

ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)は2度、発砲による暗殺未遂にあっている。1度目は当たらず、ビスマルクが社会主義者の発砲だとして、弾圧に利用した。2度目は命中したが病院で命をとりとめた。発砲者は自殺した。

参考 ビジュアル百科 世界史1200人 1冊でまるわかり!

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

ドイツの統一

1861年プロイセン王に即位したヴィルヘルム1世(位プロイセン王1861〜88 ドイツ皇帝1871〜88)は、翌年ユンカー Junker 出身のビスマルク Bismarck (1815〜98)を首相に任命した。ビスマルクは話し合いや民主主義的方法ではドイツの統一は実現できないとし、「鉄血政策」を推進して武力によるドイツ統一をめざした。プロイセン国内では工業化が推進されるとともに軍需産業が育成され、軍隊上の組織改革を実現し、富国強兵策が推進された。一定の成果をあげたのち、64年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ Schleswig ・ホルシュタイン Holstein 両州を奪った。66年には両州の管理問題からオーストリアと開戦した。これがプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)であるが、たったの7週間でプロイセンが勝利した。とくに、最大の激戦がケーニヒグレーツの戦い Königgrätz (サドワの戦い)においておこなわれたが、工業化と組織の近代化に成功したプロイセン軍が圧勝した。67年ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦(1867〜71)が成立した。

フランスのナポレオン3世は、隣国に強大な国家の登場を容認しなかった。一方、ビスマルクの側もドイツ統一を実現するためにはナポレオン3世との対決は不可避と考え、着実に軍備の拡張と戦争準備を怠らなかった。両国の思惑が衝突したのがスペイン王位継承問題であった。ホーエンツォレルン家のレオポルトがスペインの王位を継承することに反対したナポレオン3世は、エムスで休養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣して、レオポルトをスペイン王につけない保証を迫った。ヴィルヘルムは事態をビスマルクに打電したが、ビスマルクはその電報をあたかもナポレオン3世がプロイセン王を脅迫したかのように改竄かいざんして発表した(エムス電報事件)のでプロイセン国民は怒り、またフランス側もこの処置に反発し、ナポレオン3世はプロイセンに対して宣戦布告して、プロイセン=フランス戦争(普仏戦争またはドイツ=フランス戦争 1870〜71)が勃発した。

ドイツ帝国の成立
ドイツ帝国の成立(アントン・フォン・ヴェルナー画/ビスマルク博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

プロイセン=フランス戦争末期の1871年にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の即位宣言式がおこなわれ、ドイツ帝国が成立した。この行為は、ドイツ・フランス間の禍根となり、のちに第一次世界大戦の対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約の調印がこの「鏡の間」でなされた。 参考:山川 詳説世界史図録

軍政の改革が進展して動員組織が十分であり、実戦経験のある精鋭が多かったプロイセン軍が優勢に戦いを進め、スダン(セダン) Sedan の要塞でナポレオン3世を捕虜にすることに成功し、この結果フランス第二帝政は崩壊した。その後パリを包囲し、優勢な戦況を背景にビスマルクは、ヨーロッパ各国に対する外交的配慮もあって1871年1月、ヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国(1871〜1918)皇帝の戴冠式を挙行した。

イタリアとドイツの統一運動年表

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