二月革命とその意義 二月革命
二月革命(アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリッポトー画/カルナヴァレ博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

二月革命


二月革命 (1848年2月)

1848年2月22〜24日におきたフランスの革命運動。七月王政に代って第二共和政への道を開いた。二月革命は各国に波及し「諸国民の春」を現出した。

二月革命

1848年2月22、23、24日の革命運動に与えられた名称。七月王政に代って第二共和政への道を開いた。フランスでは、七月革命以後ようやく産業革命が軌道に乗りつつあったが、小農民が広範に存在し、イギリス産業資本の圧力、国家財政に対し投機をほしいままにする金融貴族の支配など、産業発展の道には多くの困難があり、47年からは経済恐慌が深刻化していった。制限選挙制によって上層ブルジョアジーの金権政治を維持しようとする七月王政に、発展の道を打開しようとする中小資本家層や小市民、都市労働者の共和主義者が対立し、政府の実力者である純理派のF.ギゾーに対して、ブルジョア共和派は新聞『ナショナル』で普通選挙と人民主権を説き、ブルジョア急進派は『レフォルム』紙に論陣を張って金融貴族の支配を攻撃した。政治集会は禁じられていたため各地で「革命宴会」が開かれたが、48年2月22日パリのマドレーヌ広場で開かれるはずの「革命宴会」がその前日禁止されると、労働者、小市民、学生は反乱に立上がり、二月革命が開始された。2月23日ギゾー内閣は瓦解し、24日市民はテュイルリー宮殿に乱入、ルイ・フィリップ(フランス王)は王位を孫のパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールに譲り、その母オルレアン公妃の摂政で事態を切抜けようとしたが、武装市民は議会に侵入してこれを阻止。パリ市庁に臨時政府が樹立され、共和政が宣言された。革命が成功するや革命戦線内部にはらまれていた階級対立が表面化し、臨時政府の大多数の閣僚はブルジョア共和派が占め、労働者大衆の社会改革の要求は満たされず社会的動揺が激化していった。こうしたなかで、4月に21歳以上の男子による直接普通選挙が行われたが、ブルジョア共和派の大勝に終り、農村の小土地所有農民は自己の所有権の危機を感じて反社会主義の意向を示した。6月足場を固めたブルジョア政府のもとでブルジョアジーとプロレタリアートの最初の正面衝突である六月事件(六月暴動)が起った。革命はドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリー、ポーランドに波及し「諸国民の春」を現出した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

二月革命とその意義

フランスでは七月革命以降産業革命が進行して、中小の産業資本家も成長し、労働者による労働運動社会主義運動がおこった。当時のフランスでは有力者が全人口のわずか1%にもおよばない制限選挙であったため、大ブルジョワジーの支配に対する不満が国民の間に高まった。

制限選挙:下院選挙資格を30歳、年額300フラン以上の納税者から25歳、200フランに引き下げ、有権者が9万人から25万人に増えたが、それすら全人口の0.6%にしかあたらなかった。
さらにフランスは東方問題における外交上の失敗や政府がさまざまな抑圧をおこなって国民の不満を抑えたので、中小資本家や労働者を中心に選挙法改正の運動が展開された。彼らは革命宴会 Banquer de Réforme という組織を全国的に広め、その支援者の拡大に努めた。この全国大会が1848年2月パリで開催され、全国から運動家が集まって選挙法改正の要求を政府に突きつけた。しかし、ギゾー Guizot (1787〜1874 任1847〜48)内閣はこの要求を拒否したため、パリで1848年2月22日暴動が発生した。ルイ=フィリップはギゾー内閣の更迭で事態の打開をはかったが失敗してイギリスに亡命し、臨時政府が樹立された。これを二月革命という(第二共和政の成立)。
ルイ=フィリップの七月王政の風刺画
ルイ=フィリップの七月王政の風刺画 ©世界の歴史まっぷ
二月革命とその意義
二月革命(アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリッポトー画/カルナヴァレ博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

19世紀パリの民衆は、七月革命から二月革命、パリ=コミューンにいたるまで、自分の居住区にバリケードをきずいて地区の連帯を固め、外敵と対決した。この1848年のフランス二月革命で、ルイ=フィリップ(フランス王)はイギリスに亡命した。

この政府には、ラマルチーヌ Lamartine (1790〜1869)に代表される産業資本家などの有産市民からなる穏健な共和主義者と、ルイ=ブランに代表される労働者・社会主義者勢力が参加した。男性普通選挙制の採用、言論・出版などの自由を決定し、さらに労働者の地位改善のためにリュクサンブール委員会を設置して国立作業場を設立した。しかし両者の主張はたがいに激しく対立し、1848年4月における総選挙において、社会主義化によって土地を失うことを恐れる農民が反労働者の立場についたため、労働者側は大敗した。ブランキらの無政府主義者は五月暴動をおこして政府の転覆をはかったが失敗に終わり、6月に単なる失業対策に終わってしまっていた国立作業場の閉鎖が決定されると労働者は暴動をおこしたが、これもカヴェニャック Caveignac (1802〜57)率いる政府軍によって鎮圧された(六月暴動または六月事件)。

このあと、穏健な共和主義者が指導する方向で国内の体制は収束することになった。12月大統領選挙がおこなわれ、詩人であったらマルチーヌ、六月暴動鎮圧の立て役者カヴェニャック、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオン Louis Napoléon (1808〜73)が争ったが、ナポレオン伝説をたくみに利用したルイ=ナポレオン(ナポレオン3世 任1848〜52)が大統領に当選した。

二月革命では労働者が政治世界に登場し社会変革を志向するようになり、産業資本家との政治・経済面での対立が深刻化し、さらにヨーロッパ各国に影響を与えて各国のナショナリズム自由主義運動を高揚させたことから、西欧と東欧の相違が顕在化し、19世紀初頭に成立したウィーン体制は完全に崩壊した。

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欧米における近代国民国家の発展

48.ウィーン体制の成立

48.ウィーン体制の成立
48.ウィーン体制の成立流れ図 ©世界の歴史まっぷ

ウィーン体制の崩壊は、1848年、フランスの二月革命で始まった。産業資本家や労働者階級が成長し、彼らは少数の大ブルジョワの利益を優先する七月王政に対し、選挙権獲得運動を激化させた。こうした運動を政府が弾圧したため、パリで革命がおこり臨時政府が成立した。この二月革命は各国に影響を与え、ウィーンでは三月革命がおこりメッテルニヒは国外へ亡命し、これによりウィーン体制は崩壊した。続いてベーメン・ハンガリー・イタリアでも民族運動が活発化し、これらの民族運動は「諸国民の春」とよばれた。しかし、1849年にかけて各地の革命運動はすべて鎮圧された。それ以後、西欧諸国では自由主義・民主主義の政治改革が、東欧地域ではナショナリズムによる民族自立が主要な目標となり、西欧と東欧の相違が顕在化した。1848年の革命はそれぞれ異なる方向に進む分岐点となり、また「革命の時代」の終息を告げるものであった。

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