五胡十六国 (304年〜439年)
匈奴の劉淵による漢の建国から北魏の華北統一までの、華北に興亡した五胡と漢人の国家の総称、および時代の呼称。この時期、華北の戦乱を逃れて漢人が江南や東北・西北辺境に移動した。
五胡十六国
匈奴の劉淵による漢の建国から北魏の華北統一までの、華北に興亡した五胡と漢人の国家の総称、および時代の呼称。この時期、華北の戦乱を逃れて漢人が江南や東北・西北辺境に移動した。
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
八王の乱の過程で、自己の力を自覚した諸民族のうち、成都王のもとで活躍していた南匈奴の劉淵は、304年に自立し、308年(永嘉2)には山西の中南部で皇帝を称した(漢)。その子の劉聡のとき、洛陽を陥れて懐帝を捕虜にし(311)、316年には長安の愍帝(司馬炎の孫)を降して西晋を滅ぼした。
こうして華北は五胡十六国時代に入り、漢人豪族のひきいる流民集団は時に塢と呼ばれる城塞をつくって自営したり、江南に復興した東晋政府を頼って南に移住したりした。このような時代を背景に、東晋の詩人陶潜(陶淵明)は「桃花源記」で、戦乱をさけ山中で自給自足の生活を送る集落を理想化して描いている。
五胡十六国と南北朝
華北では、まず南匈奴が強盛を示したが、つづいて匈奴の別種といわれる羯が政権をたてた。
また、2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑も長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。
チベット系の氐や羌も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。
このうち、氐のたてた前秦は、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝によって華北が統一された(439)。
また、都を平城(現山西省大同市)から洛陽に移し(494)、本格的に中国支配にのりだすとともに、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。
鮮卑族拓跋氏の故郷
1980年、中国の黒竜江省のチチハル市から嫩江を北にさかのぼり、さらにその支流の甘河を250kmほどさかのぼったところ(当時の行政区画は、内モンゴル自治区ホロンバイル盟オロチョン旗)から、鮮卑族拓跋氏の発祥地に関する重要な遺跡の発見が報告された。その場所は、大興安嶺山脈北部の針葉樹林の中にそびえる崖にうがたれた自然の洞窟(嗄仙洞)で、その石の壁に漢字で書かれた文章が刻まれているのが発見された。
そこには、北魏の太武帝の太平真君4年(443年)に、ここに使者を派遣して天地と祖先をまつったことが記されており、その内容は、北魏の歴史を記録した『魏書』という書物に書かれている記事と一致した。
これまで、鮮卑族拓跋氏の発祥地についてはさまざまな説が唱えられてきたが、文献に記録されたものとまったく同じ内容を示す資料の発見によって、その場所が確認されたのである。
五胡十六国一覧
五胡
匈奴, 鮮卑, 羯, 羌, 氐
十六国
国名 | 始祖 | 存続年 | 民族 |
---|---|---|---|
前涼 | 張軌 | 301年 – 376年 | 漢族 |
前趙 | 劉淵 | 304年 – 329年 | 匈奴 |
成漢 | 李特 | 304年 – 347年 | 巴賨 |
後趙 | 石勒 | 319年 – 351年 | 羯 |
前燕 | 慕容皝 | 337年 – 370年 | 鮮卑 |
前秦 | 苻健 | 351年 – 394年 | 氐 |
後燕 | 慕容垂 | 384年 – 409年 | 鮮卑 |
後秦 | 姚萇 | 384年 – 417年 | 羌 |
西秦 | 乞伏国仁 | 385年 – 431年 | 鮮卑 |
後涼 | 呂光 | 389年 – 403年 | 氐 |
南涼 | 禿髪烏孤 | 397年 – 414年 | 鮮卑 |
北涼 | 沮渠蒙遜 | 397年 – 439年 | 盧水胡 |
南燕 | 慕容徳 | 400年 – 410年 | 鮮卑 |
西涼 | 李暠 | 400年 – 421年 | 漢族 |
夏 | 赫連勃勃 | 407年 – 431年 | 匈奴 |
北燕 | 馮跋 | 409年 – 436年 | 漢族 |