享保の改革
享保の改革一覧表 ©世界の歴史まっぷ

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享保の改革( A.D.1716〜A.D.1745)

江戸時代、8代将軍吉宗が幕政建直しのためにその在職中に行われた改革。封建制の矛盾、幕府制度の矛盾も表面化し、幕藩体制の危機は深刻化していたため、経済政策、文教政策、社会政策など多くの政策を実施、前代までの文治政治による装飾化を嫌って実用主義的な立場で政治を行なった。しかしこの改革も享保の飢饉と米価下落のために十分な成果をみず、幕府の安定は一時的なものに終った。

享保の改革

江戸時代、8代将軍徳川吉宗が幕政建直しのために行なった改革。幕府三大改革のなかで最初に行われたことから、のちの改革の目標となった。吉宗の将軍襲職の享保1(1716)年に始り、その在職中に行われた。江戸時代中期になると、封建制の矛盾が次々と現れ、また幕府制度の矛盾も表面化して、幕藩体制の危機は深刻化していた。そこで吉宗は、農村対策として定免制を施行して年貢収納の強化をはかり、生産量を増すために新田開発やサツマイモ (甘藷)の栽培を奨励して農民の生活の安定をはかろうとした。都市の商業資本に対しては株仲間の公認や通貨の統一に努め、おもにその統制に力を注いだ。

徳川吉宗
徳川吉宗像 部分(狩野忠信筆/徳川記念財団蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

高利貸資本の圧迫により貧窮の状態にあった旗本や御家人のために上米の制や相対済し令を出すことによって救済につとめ、一方幕府内部において人材登用のため足高の制を定めて幕政運営の硬直化を防ごうとした。その他法典の編纂に努めた。『公事方御定書』の制定や『御触書寛保集成』の編集はその成果である。吉宗は目安箱を設置して広く庶民の意見を聞き、前代までの文治政治による装飾化を嫌って実用主義的な立場で政治を行なった。その傾向は文化面においても現れた。医学や洋学の奨励はその現れである。しかしこの改革も享保の飢饉と米価下落のために十分な成果をみず、幕府の安定は一時的なものに終った。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018

幕藩体制の動揺

幕政の改革

享保の改革
社会の変化

社会の変化(享保の改革)

社会の変化対策
①農村への貨幣経済の浸透幕府
①貨幣改鋳による出目(差益)
②御用金・献金
③運上・冥加の営業税
諸藩
①家臣の俸禄・知行の借り上げ
②藩札・専売制をおこなう
武士
①札差などからの借金
②御家人株を裕福な庶民に売却(養子縁組で幕臣の資格を得る)
②商品作物の生産拡大、農村家内工業の拡大
③江戸・大坂・京都の発達
③江戸・大坂・京都の発達
④城下町・港湾都市の商人の富裕化
⑤貧窮化する大名・武士への商人による貸付け(大名貸)
参考:山川 詳説日本史図録
17世紀に、農業を中心として発展した生産活動は、その後もさまざまな産業分野において、引き続き拡大した。全国市場の要である江戸・大坂、京都の三都と、領内市場の中心である城下町、流通の重要な拠点である港湾都市などの商人は富裕化し、さらに、財政運営の難しくなった大名にも貸付けを行って(大名貸だいみょうがし)、藩財政を握る者まで現れた。農村にも貨幣経済が浸透していき、商品作物の生産や家内工業が広がって、新たな富がしだいに蓄積されていった。

このようななかで、1716(享保きょうほう元)年に将軍家継が8歳で死去し、家康以来の宗家(本家)が途絶え、三家の一つである紀伊藩主の徳川吉宗(1684〜1751)が8代将軍についた。吉宗は、家康のひこ孫にあたるが、30年近くの将軍在職の間、「諸事権現様(徳川家康)御掟の通り」と家康時代への復古を掲げて幕政の改革につとめた。これを享保の改革と呼んでいる。

経済政策

綱吉以来続いた柳沢吉保間部詮房新井白石らによる側近政治のため、幕政から排除された譜代大名らは、不満を強めていた。彼らの期待を担って将軍となった吉宗は、譜代大名からなる老中・若年寄を重視するとともに、新たに側近である御側御用取次おそばごようとりつぎを設け、老中らと側近を巧みに使った。また、旗本の大岡忠相おおおかただすけ(1677〜1751)や東海道川崎宿の名主であった田中丘隅たなかきゅうぐ(1662〜1729)らの有能な人材を登用した。さらに、荻生徂徠おぎゅうそらいに政治のあり方を諮問し、室鳩巣むろきゅうそう(1658〜1734)らの儒学者を侍講じこうに用い、将軍が先頭に立って改革に取り組んだ。なお、人材登用のために足高の制を設けた。

足高の制

1723(享保8)年、幕府は役職に就任する者の家禄がその役職の役高に達しない場合、その不足額を支給する制度を採用した。例えば、町奉行の役高は3000石と定められているので、禄高1000石のAという旗本が就任すると。Aには役高と禄高の差額2000石が在職中は支給されるという仕組みである。この制度により禄高が低くても有能な人材を町奉行に登用できる途が開けるとともに、Aの家禄を3000石に引き上げなくても済む(家禄を引き上げればその役職を離れても代々支給されることになる)ために、幕府財政の支出増大を抑制できるという利点ももっていた。

改革の重点は幕府財政の再建におかれ、その前提として民政・財政を担当する勘定奉行所の整備と強化をはかり、地方で農村支配に優れた実績をあげた者を勘定方役人や代官に積極的に取り立てた。また、全国の人口調査や田畑の耕地面積の調査など、政治に必要な客観的な数値の把握にもつとめた。

1723(享保8)年に第1回の調査が行われ、以後6年ごとの干支が子と午の年に実施され、百姓と町人身分の人口が書き上げられた。

吉宗は、まず厳しい倹約令を出して支出の減少をはかるとともに、収入の増加策を打ち出し、1722(享保7)年に上げ米あげまいを実施し、ついで抜本的な増収策として、新田開発、年貢の増徴、商品作物の奨励が行われた。1722(享保7)年に、江戸日本橋に高札こうさつを立てて町人開発新田を奨励し、商人資本の力を借りて新田開発を進めようとした。それと同時に国役により、紀州から連れてきた土木技術者などを使って大河川流域の耕地の安定をはかった。

上げ米

1722(享保7)年、幕府は諸大名に対して領知高1万石につき100石を献上、すなわち上げ米をするように命じた。触書ふれがきによれば、旗本らへの俸禄の支給もままならないほど幕府財政が窮乏したため、「御恥辱を顧みられず」この措置をとったと説明している。
上げ米の見返りに、1年間の江戸在府期間を半年に縮減する、参勤交代の緩和を行った。儒者の室鳩巣らは、幕藩関係の根幹をなす参勤交代制度の緩和は、大名統制上重大な問題であると危惧した。上げ米の総額は1年で18万7000石にのぼり、幕府の年貢収入の10%以上に及んだが、1731(享保16)年に廃止された。

年貢増徴策としては、検見法を改め定免法を広く取り入れた。定免法は、一定期間同じ年貢率を続け、凶作以外には年貢率をかえないため、年貢最が安定し、しかも一定期間がすぎると年貢率を引き上げることもできた。西日本の幕領で盛んになった綿作など、商品作物の生産による富の形成に着目し、勘定奉行の神尾春央かんおはるひで(1687〜1753)らが畑地からの年貢増収をはかった。

幕僚は、1716(享保元)年の408万石から1744(延慶元)年には463万石に増加し、年貢収納率も1716年の34%から1744年には38%に上昇している。

この結果、幕領の年貢収納高は上昇し、平年作の年平均が140万石であったものが、1727(享保12)年には160万石、1744(延享元)年には180万石に達した。商品作物としては、菜種なたね·甘藷かんしょ・さとうきび·はぜ·朝鮮人参などの栽培を奨励し、青木昆陽あおきこんよう(1698〜1769)を登用して甘藷の栽培を研究させたことは有名である。そのほか、新しい産業の開発を進める殖産興業のため、実学を奨励し、漢訳洋書の輸入制限を緩和した。

漢訳洋書:中国で漢文に翻訳した洋書のこと。日本人は、漢文を通じて間接的に西洋の学問に接することができた。このとき、キリスト教に関係するもの以外の輸入を許可した。

司法制度の整備と法典の編纂により、法に基づく合理的な政治を進めようとしたことも、この改革の特徴である。これまでの裁判の判例を集めて、裁判や刑罰の基準とするために、1742(寛保2)年「公事方御定書くじかたおさだめがき」を制定し、1744(延享元)年に幕初以来の法令を集大成して「御触書寛保集成おふれがきかんぽうしゅうせい」を編纂した。この司法にかかわって有名なものの一つに、1719(享保4)年の相対済し令あいたいすましれいがある。都市と商業の発達により、商取引や金銀貸借などの金銭に関する訴訟(金公事かねくじ)が増加したため、幕府は訴訟を受理せず、当事者間で解決させようとした。しかし激しい反発を招き、10年後の1729(享保14)年に廃止された。なお、幕府はこれ以降、仲介人が間に立ち、当事者同士の話し合いで紛争を調停する内済ないさいという方式を奨励した。

相対済し令

商業の著しい発展は、金銭貸借や商取引上の紛争を頻発させた。その結果、金銭に関係する訴訟(金公事)が激増し、そのため幕府の奉行所はほかの訴訟や、一般政務に支障をきたすほどであった。幕府は、1661(寛文元)年·1685(貞享2)年・1702(元禄15)年と相対済し令あいたいすましれいを出してきたが、享保の法令が有名である。1718(享保3)年に江戸町奉行所が受理した訴訟は3万6000件にのぼるが、そのうち金公事は90%以上を占めていた。しかし、困窮していた旗本・御家人のなかには、この法令を使って借金を踏み倒す者も現れ、混乱した状態が生まれた。

この時期、最も問題となっていたのは物価問題で、米の値段が下がってもほかの諸物価は下がらない、「米価安の諸色(米以外の諸商品)高」という状況への対処であった。1724(享保9)年に物価引下げ令を出し、ついで流通と物価を統制する仕組みとして、22品目の取扱い商人に組合・株仲間をつくらせた。さらに、1730(享保15)年には、大坂堂島の米相場を公認し、米価統制の核に据えようとした。しかし実効があがらなかったため、1736(元文元)年にそれまでの貨幣政策を転換させ、正徳金銀の品位(金銀の含有率)を半分に減らした元文金銀を鋳造し、物価の安定に効果をあげることができた。

農村政策

農村政策として注目されるものに、1721(享保6)年の流地禁止令ながれちきんしれいがある。田畑の質入れ期限がすぎても借金を返済できないため質流れ(流地)となり、百姓層の分解が進行してきたことへの対処である。これを徳政令とくせいれいとみなした百姓は、流地の返還を地主に迫り、越後頸城くびき郡、出羽村山郡などで騒動(質地騒動しっちそうどう)をおこした。結局、幕府は1723(享保8)年にこの法令を撤回してしまった。

社会政策

民政

都市政策が打ち出されたのも、この改革の特徴であった。明暦の大火以後も大きな火災の相ついだ江戸に、延焼を防ぐため広小路や空き地などの火除け地が設けられ、土蔵造も奨励された。さらに、いままでの定火消じょうびけしに加えて、町方の消防制度として「いろは」47組(のちに48組)の町火消まちびけしがつくられた。また、1721(享保6)年に評定所門前に目安箱がおかれ、広く庶民や浪人たちの意見を求めた。その意見のなかから、小石川薬園に貧民の救済施設として小石川養生所が設けられた。

文教政策

文教政策にも力が入れられ、5代将軍綱吉や新井白石は、儒教を幕府政治の基礎に据えようとし、8代将軍吉宗もまた儒教を政治に活用しようとした。湯島聖堂にあった林家の塾の講義は人を広く庶民にまで聴講することを許可し、さらに儒教の徳目を説いた『六諭衍義大意りくゆえんぎたいい』を板行はんこうし、儒教による民衆教化につとめた。

享保の改革一覧表

特色 ①家康時代への復古が目標、御用取次の新設
②財政再建の企図、商業資本の掌握、江戸の都市対策の強化
経済政策 財政 足高の制(1723) 在職中、役高の不足分を加増
相対済し令(1719) 金銭貸借訴訟を受けつけない
倹約令により支出をおさえる
上げ米(1722) 1万石につき100石を上納(〜1730)
年貢増徴策 定免法の採用(1722)
幕府の年貢率引上げ(1727)
殖産興業 新田開発奨励(1722) 新田検知の推進
商品作物栽培奨励 甘藷(さつまいも)・甘蔗・櫨・朝鮮人参・胡麻など
農村政策 流地禁止令(質流れ禁令) 百姓の階層分化への対処 → 質地騒動がおこり撤回
貨幣 元文金銀を鋳造(1736)
文教政策 実学奨励 キリスト教以外の漢訳洋書輸入制限を緩和(1720)
青木昆陽・野呂元丈に蘭学を学ばせる(1740)
士風引締 武芸奨励、鷹狩復活
社会政策 民政 町火消の制(1718) 江戸「いろは」47組を結成(1720)、火除地・広小路の設置
目安箱の設置(1721) 小石川養生所設置(1722)
物価調整 堂島米市場の公認(1730) 米価調整をはかる
享保の基金(1732) 米価高騰 → 囲米を放出して、米価の引下げをはかる
公事方御定書(1742) 裁判の基準、大方忠相らが編集(下巻は「御定書百箇条」ともいう)
御触書寛保集成 幕府法令の集大成
日光社参の実施(1728)
結果 幕政の引き締めにより財政が安定
社会の動揺 年貢増徴や享保の大飢饉による農村の疲弊、庶民の不満の増大や物価上昇、百姓の階層分化などで一揆・打ちこわしが頻発

参考 山川 詳説日本史図録

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