伊達宗城
伊達宗城(WIKIMEDIA COMMONS)©世界の歴史まっぷ

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伊達宗城 だてむねなり( A.D.1818〜A.D.1892)

伊予国宇和島藩主。ペリー来航以後、外交に関して積極的に意見を上申。将軍継嗣問題では一橋派に属して活躍。以後も島津久光山内豊信らと公武合体を推進。王政復古後、議定などの役職を歴任。1871年、全権として日清修好条規を締結した。

伊達宗城

伊予国宇和島藩主。ペリー来航以後、外交に関して積極的に意見を上申。将軍継嗣問題では一橋派に属して活躍。以後も島津久光・山内豊信らと公武合体を推進。王政復古後、議定などの役職を歴任。1871年、全権として日清修好条規を締結した。

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西洋知識を導入し近代化に尽くした宇和島の賢侯

「蘭癖」と呼ばれた西洋好き 人材招聘で先進知識を導入

伊達宗城だてむねなりは藩主となるや、炭の埋蔵量調査や木蝋もくろう、海産物、和紙などの生産奨励を行い、殖産興業を推進した。また「蘭癖らんぺき」と呼ばれるほどの西洋文明好みで、藩外から人材を招き、積極的に西洋知識の導入を図った。宗城は思想犯として幕府から追われていた高野長英たかのちょうえいを藩内にかくまい、蘭学の翻訳・教授、砲台の設計などを任せた。さらに長州の蘭学者の大村益次郎を招聘しょうへいし、軍制の洋式化・近代化に着手。ドイツ人医師シーボルトの娘の楠本くすもといねも宇和島藩に招かれ、西洋医学の普及に貢献している。このような政策により、宇和島藩は10万石の小藩ながら自前で蒸気船を建造するほどの高い技術力をもつようになった。宗城は幕政にも参画し、松平慶永、山内豊信、島津斉彬とともに「幕末の四賢侯」と呼ばれた。将軍継嗣問題では彼らとともに一橋慶喜を推し、大老の井伊直弼と対立。安政の大獄により謹慎・隠居を命じられたが、謹慎が解けると再び幕政に関与するようになる。天皇を首長とする連邦国家を構想し、山内豊信、島津久光らと公武合体運動を推進した。王政復古後は新政府の議定に名を連ねるが、戊辰戦争が勃発すると薩長の行動に抗議して辞任した。その後、外国官知事として明治新政府に復帰、民部卿兼大蔵卿を経て、1871年(明治4)には全権として日清修好条規を締結。同年、中央政界を引退した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の動揺

幕府の衰退

経済近代化と雄藩のおこり

改革が比較的うまくいった薩長土肥など西南の大藩のほか、伊達宗城だてむねなり(1818-92)の宇和島藩松平慶永まつだいらよしなが春嶽しゅんがく、1828-90)の福井(越前)藩などでも、有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びついて積極的に藩営貿易などを行い、藩権力を強化した。これらの諸藩は、危機に直面して有能な中下級藩士を藩政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのち雄藩ゆうはんとして、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。

藩政改革

薩摩(鹿児島)藩主:島津重豪
調所広郷
島津斉彬
500万両の負債を無利息250年という長期年賦返済で棚上げ。奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化。琉球王国との貿易増大。
島津斉彬は洋式工場群(集成館)を建設。
長州(萩)藩主:毛利敬親
村田清風
銀8.5万貫(約140万両)の負債を37年賦返済で棚上げ。紙・蝋の専売制を改革。下関に越荷方をおいて、廻船の積荷の委託販売をして利益を得る。
肥前(佐賀)藩主:鍋島直正
均田制を実施し、本百姓体制を再建陶磁器の専売制を進める。日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど藩権力を強化。
土佐(高知)藩主:山内豊重
改革派「おこぜ組」
吉田東洋
おこぜ組が財政緊縮による藩財政の再建につとめるが失敗。吉田東洋が紙・木材などの専売を強化する。
水戸藩主:徳川斉昭
藤田東湖
会沢安
全領の検地、弘道館を設立。藩内保守派の反対で改革派不成功。
宇和島藩主:伊達宗城
有能な中下級藩士
紙・楮・蝋の専売強化。村田蔵六を招いて兵備の近代化を図る。
越前(福井)藩主:松平慶永(春嶽)
橋本左内
由利公正
教育の普及や軍備改革を行い、貿易振興策によって財政を再建

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

開国

1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永まつだいらよしなが(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬しまづなりあきら(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城だてむねなり(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志ながいなおゆき(1816〜91)·岩瀬忠震いわせただなり(1818〜61)・川路聖謨かわじとしあきら(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭とくがわなりあき(1800〜60)を幕政に参与させた。

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