倭寇
倭寇の侵略地と根拠地 ©日本大百科全書(ニッポニカ)
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倭寇 わこう

13〜16世紀、朝鮮半島から中国東南沿岸にかけて活動した海賊・私貿易の集団。前期倭寇は日本人、後期倭寇は中国人を主体としたが、李成桂の倭寇討伐や勘合貿易の進展を経て、豊臣秀吉の海賊取締り令で衰退した。

倭寇

13〜16世紀、朝鮮半島から中国東南沿岸にかけて活動した海賊・私貿易の集団。前期倭寇は日本人、後期倭寇は中国人を主体としたが、李成桂の倭寇討伐や勘合貿易の進展を経て、豊臣秀吉の海賊取締り令で衰退した。

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武家社会の成長

幕府の衰退と庶民の台頭

このころ、倭寇と呼ばれた日本人を中心とする海賊集団が、猛威をふるっていた。倭寇の主要な根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦地方などで、規模は船2~ 3隻のものから数百隻に及ぶ組織的なものまでさまざまであった。倭寇は朝鮮半島、中国大陸沿岸を荒らし回り、人々を捕虜にし、略奪を行った。困惑した高麗は、日本に使者を送って倭寇の禁上を求めたが、当時九州地方は戦乱の渦中にあり、取締りの成果はあがらなかった。この14世紀の倭寇を前期倭寇と呼ぶが、その主な侵略の対象は朝鮮半島で、記録に明示されたものだけで400件に及ぶ襲撃があった。高麗が衰亡した一因は、倭寇にあったと考えられている。

中国では1368年、朱元璋(太祖洪武帝、1328~98)が漢民族の明(王朝)を建国した。明は歴代の王朝にならい、中華を中心とする国際秩序の構築をめざして通交の開始を近隣諸国に呼びかけた。日本にも使者が来航し、合わせて倭寇の禁止が求められた。国内の戦乱を終息させた足利義満は、積極的に応じて倭寇の鎮圧を九州探題に命じ、1401(応永8)年に僧侶祖阿そあ(生没年不詳)と博多商人肥富こいつみ(生没年不詳)とを遣わして正式な国交を開いた。明(王朝)は日本を属国とみなし、朝貢の形式をとるように要求した。義満は「日本国王臣源」と名乗り、明の年号を用い、返礼の回賜を受け取る朝貢貿易が始まった。

勘合貿易の中断後、再び倭寇の活動が盛んになつた。16世紀に展開されたこの倭寇は後期倭寇と呼ばれ、主として東シナ海、南洋方面にみられた。ただし、本当の日本人は3割ほどで、中国人やポルトガル人が多かった。彼らは日本の銀と中国の生糸の交易を行いながら、海賊として行動した。中でも有名な頭目とうもくは、平戸・五島地方に居を構えて数百隻の船団を指揮した王直おうちょくという明人である。彼は王を自称し、大名たちとも交渉をもった。1559(永禄2)年、王直が明に捕殺されることには後期倭寇は衰えをみせはじめ、1588(天正16)年、豊臣秀吉が海賊取締令を発するに及んで、あとを断つことになった。

朝鮮半島では、1392年、倭寇を撃退して名声を得た武将の李成桂りせいけい(1335〜1408)が高麗を倒し、朝鮮李氏朝鮮)を建国した。朝鮮も明と同じく、通交と倭寇の禁止を日本に求めてきた。幕府は直ちにこれに応じ、日朝貿易が始まった。1419(応永26)年、朝鮮は200隻の兵船と1万7000人の軍兵をもって対馬を襲った。これを応永の外寇おうえいのがいこうというが、朝鮮の目的はあくまで倭寇の撃滅にあったので、貿易は一時の中断ののちに続けられることになった。

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諸地域世界の交流

倭寇
『倭寇図巻』Great Ming Military

海の道の発展

東アジアの海洋世界

14世紀半ば、元朝の力が衰え、日本でも南北朝の騒乱の時期になると、私貿易がさかんに行われるようになった。この中で東シナ海で倭寇わこうの活動が活発化し、朝鮮半島や中国の沿岸で交易とともに、食料や人間の略奪を行なった。この14世紀を中心とする倭寇を前期倭寇と呼ぶ。

倭寇:倭寇とは「日本人の盗賊」を意味する朝鮮・中国による呼称。構成員は一概に日本人ばかりとはいえない複雑なものであった。とくに16世紀を中心とした後期倭寇は中国人が大半を占めたと記録されている。

明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝えいらくていが即位した時期は、朝鮮半島では李成桂りせいけいが朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満あしかがよしみつが南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝こうぶていが目指した海禁朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封さくほうを受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。

世界の一体化と銀

明朝における銀需要の高まりと海禁政策の実施を背景に活躍したのが、中国人・日本人の密貿易集団であった。1550年代を中心とした16世紀に、彼らは密貿易とともに中国東南沿岸地帯に侵入してさかんに略奪を行なった。これを後期倭寇と呼ぶ。

鉄砲(火縄銃)は1543年、種子島に漂着した中国商船(倭寇とみられる)に乗っていたポルトガル人により伝えられたとされている。ただし初期の火縄銃の形式により、東南アジアで使われていたものが倭寇によって日本に伝えられたという説もある。

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

14世紀の東アジア

東アジアでは14世紀後半、元王朝末の混乱の中から明王朝が成立した。明は、君主独裁による中央集権体制の確立に努める一方、東アジア諸国に対しては朝貢体制を復活させて国家による管理貿易を行い、朝貢を勧誘するため数回にわたり大艦隊を南海諸国へ派遣した。16世紀に入ると明は、モンゴルや倭寇対策に悩まされ、国内の混乱もあってしだいに国力が衰え、17世紀前半に滅亡した。

蒙古襲来後の日本では鎌倉幕府が1333年に倒され、南北朝の争乱期となり、京都に室町幕府が成立した。しかし国内は南北朝の騒乱で統制がとれず、西日本の海賊集団は朝鮮半島南岸や中国江南の沿岸を略奪する倭寇となり、活動も次第に活発になった(前期倭寇)。

明初の政治

このほか洪武帝は、朱子学 宋代の文化)を官学として科挙制を整え、またそれまで行われていた唐律にかえて新たに明律・明令を制定した。対外的には、中国人の海外渡航を厳禁して、民間貿易を制限するとともに、朝貢貿易以外の外国との取引を禁止した。こうした海禁政策は明代中期以後まで続き、倭寇(後期倭寇)の発生を引き起こす原因となった。

明朝の朝貢世界

明朝は日本の室町幕府に対して倭寇の取り締まりを要求した。さらに明は1402年、第3代将軍足利義満に国書を与え、「日本国王」に封じた。これを受けて義満は、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始した。このため、倭寇の活動は減少した。

明朝の朝貢世界
明朝の朝貢世界 ©世界の歴史まっぷ
明後期の社会と文化
王直

安徽省徽州県出身の王直は、はじめ塩商であったが、事業に失敗すると、1540年に仲間とともに日本や南海方面を相手に密貿易をおこない巨額な富をきずいた。1543年に種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、日本に鉄砲を伝えたが、そのとき日本側と筆談をしたのが王直であったという。しかし彼が根拠地としていた舟山しゅうざん列島が、倭寇の取り締まりで攻撃をうけると、部下を率いて江蘇こうそ・浙江せっこう地域の沿岸部を襲い、後期倭寇の中心的な人物となったが、彼の死後、倭寇の勢力はしだいに衰えていった。

徽州商人
王直像 王直は徽州商人から倭寇の頭目になった。 ©Public Domain
朝貢体制の動揺

北方民族の侵入に苦しめられていた明は、南方海上でも倭寇の被害に悩まされていた。倭寇は武装した商人や海賊からなり、すでに元代からみられた。当時はおもに高麗の南岸や中国江南の沿岸を略奪していた。明は国初から倭寇の対策に苦慮し、洪武帝は日本の室町幕府にその対処を求めた。将軍足利義満は、朝貢貿易の利益を目的に、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始し、このため倭寇は減少した(前期倭寇)。ところが16世紀になり、室町幕府の勢力が衰えると、再び倭寇が急増した。これに加え、明では永楽帝以後、海禁政策が厳しくなり、民間貿易がおこなわれなくなった。これに不満をもつ中国人が日本人と結託して、さかんに密貿易や海賊行為をおこなうようになった(後期倭寇)。とりわけ嘉靖年間(1521〜1566)にはもっとも多くの倭寇が発生し、その絶頂期を迎えた。こうした増大する倭寇に対して、明は戚継光せきけいこう(?〜1587)を派遣して討伐させると、ようやく倭寇の勢いも衰えた。また日本でも豊臣秀吉が天下を統一し、倭寇を厳重に取り締まったので、16世紀末にはまったくその跡を絶った。

詳説世界史研究

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