光仁天皇

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光仁天皇こうにんてんのう (和銅2(709)年〜天應元(782)年)
第49代天皇(在位770年10月23日 - 781年4月30日)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子しきのみこ)の第6子で白壁王。光仁天皇の時代は、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。

光仁天皇

平安朝廷の形成 律令国家の形成 – 世界の歴史まっぷ

生涯

天智天皇 飛鳥時代
天皇家と蘇我氏の関係 天武天皇の皇子(緑)

父・施基親王(志貴皇子)は、天智天皇の第7皇子で、母は越道君伊羅都売。壬申の乱を経て、皇統が天武天皇の系統に移ったことから、天智天皇系皇族であったために皇位継承とは全く無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた。
元正天皇の時代の716(霊亀2)年、白壁王が8歳の時にその父が死去して後ろ盾がなく、皇族としては出世も遅かった。

光仁天皇
天皇家と藤原氏の関係系図
  • 721(養老5)年、聖武天皇の皇女で孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王は伊勢斎王に卜定された。
  • 744(天平16)年、聖武天皇の唯一の皇子であり(基皇子死去後)、皇太子の最も有力な候補であった、安積親王(井上内親王の弟)は、難波宮に行幸の際、その途中に桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。藤原仲麻呂に毒殺されたという説がある。井上内親王は弟の安積親王の薨去により、斎王の任を解かれて退下し、権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。
  • 749(天平勝宝元)年、聖武天皇が譲位し皇太子・阿倍内親王が孝謙天皇として即位
  • 764(天平宝字8)年、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇の信任を得て、766(天平神護2)年に大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
  • 770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩御。独身の女帝に後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなっていた。しかし妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人であった。このことから天皇の遺宣に基づいて立太子が行われ、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。 元号は宝亀と改められた。
称徳天皇崩御の際に左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備、参議の藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、近衛大将・藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟・大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている。
  • 722(宝亀3)年、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。
  • 773(宝亀4)年、高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる。
    天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。
  • 775(宝亀6)年、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂も急死。
  • 776(宝亀7)年、祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。開基は善珠僧正。
  • 777(宝亀8)年、天変地異が続き、光仁天皇が不豫(病)となり、山部親王も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。
  • 781(宝亀12)年、伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応に改元する。元日の改元は現在のところ日本史上唯一の事例である。
    光仁天皇は70歳を超えても政務に精励したが、781(天応元)年に第一皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御した。
  • 782(天応2)年、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。川継の父は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹不破内親王であった。
    人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取、末茂、真鷲もそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌783(延暦2)年頓死。光仁天皇の崩御後も政情が落ち着くことは決して無かった。

后妃・皇子女

  • 皇后:井上内親王(717-775) – 聖武天皇皇女
    • 酒人内親王(754-829) – 桓武天皇妃
    • 他戸親王(?-775) – 光仁天皇皇太子
  • 皇太夫人:高野新笠(?-789) – 和乙継女
    • 能登内親王(733-781) – 市原王室
    • 山部親王(桓武天皇)(737-806)
    • 早良親王(750-785) – 桓武天皇皇太子
  • 夫人:藤原産子(761-829) – 藤原百川女? または藤原楓麻呂女?
  • 夫人:藤原曹司(758-793) – 藤原永手女
  • 夫人:紀宮子 – 紀稲手女
  • 宮人:尾張女王(?-804?)- 湯原王女
    • 薭田親王(751-781)
  • 宮人:県主島姫 – 県主毛人女
    • 弥努摩内親王(?-810) – 神王室
  • 女嬬:県犬養勇耳(または男耳)
    • 広根諸勝
  • 未詳
    • 開成(724-781)

参考 Wikipedia

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