公武合体 (幕末)
公儀政体論を背景とする公(朝廷)・武(幕府)の提携による政局安定策。井伊直弼の死後、老中安藤信正らの公武合体派は、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の妻に迎えることに成功したが、有栖川宮熾仁親王との結婚が決まつていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は坂下門外の変で襲われ挫折した。
公武合体
公儀政体論を背景とする公(朝廷)・武(幕府)の提携による政局安定策。井伊大老の死後、老中安藤信正らの公武合体派は公武合体論をとなえ、和宮降嫁を具体化して幕政の回復を図ったが、坂下門外の変で挫折した。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった老中安藤信正(1819〜71)は、通商条約調印により対立した朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力をおさえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統ーして幕府の権威を回復させるため、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めた。それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮(1846〜77)を将軍家茂の妻に迎えることに成功したが、有栖川宮熾仁親王(1835〜95)との結婚が決まつていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は1862(文久2)年、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われて傷つき、まもなく失脚した(坂下門外の変)。