共和演説事件
尾崎行雄(国立国会図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

共和演説事件


共和演説事件 A.D.1898〜

第1次大隈内閣の文相尾崎行雄の舌禍ぜっか事件。尾崎は帝国教育会で金権政治を批判し、「日本に共和政治が行われたと仮定すれば、三井・三菱は大統領候補となろう」と演説、不敬として攻撃され辞職。

共和演説事件

1898年、大隈内閣の文相尾崎行雄の舌禍ぜっか事件。尾崎は帝国教育会で金権政治を批判し、「日本に共和政治が行われたと仮定すれば、三井・三菱は大統領候補となろう」と演説、不敬として攻撃され辞職。

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日清戦争後の政府と政党 日清戦争後の政治と政党の流れ図
日清戦争後の政治と政党の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣わいはんないかく第1次大隈内閣)は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄がいわゆる共和演説 を非難されて辞職に追い込まれたりした。結局、旧自由党系の星亨ほしとおるが暗躍して憲政党を解党させたために 同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。

尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。

このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。

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