北京議定書
北京議定書(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
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北京議定書(辛丑和約しんちゅうわやく) 1901

義和団事件に関する清朝と11カ国(出兵8カ国(日本・ロシア・イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・イタリア)とベルギー・オランダ・スペイン)との講和条約。清朝は、責任者の処罰、賠償金4億5000万テールの支払い、北京公使館区域および特定地域への列国軍隊の常駐などを承認した。

北京議定書

1901 義和団事件に関する清朝と11カ国(出兵8カ国とベルギー・オランダ・スペイン)との講和条約。清朝は、責任者の処罰、賠償金4億5000万テールの支払い、北京公使館区域および特定地域への列国軍隊の常駐などを承認した。

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帝国主義とアジアの民族運動

アジア諸国の改革と民族運動

義和団事件

義和団鎮圧後の1901年、敗れた清は列強との間に北京議定書辛丑しんちゅう和訳を締結し、巨額の賠償金を支払い(総計9億8000万テール)、北京周辺の軍備撤廃、外国軍隊の北京駐兵権などを認めさせられた。この和訳では新たな領土の割譲こをなかったものの 、列強の中国に関する干渉はさらに強まり、中国の半植民地化はいよいよ決定的なものとなった。

列強が領土割譲による中国再分割をおこなわなかったのは、義和団に現れた中国民衆の強烈な抵抗のエネルギーをみて、分割を強行して第2、第3の義和団を招くより、中国の統治は清朝に任せて、もっぱら経済的利潤を吸いあげるほうが上策と判断したことによる。

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近代国家の成立

日露戦争と国際関係

北清事変と日英同盟

こうした情勢のさなかに、民衆の間に外国人排斥気運が高まり、山東省では義和団ぎわだんを中心に「扶清滅洋ふしんめつよう」を叫ぶ排外運動がおこった。清国政府がむしろこれをあおり立てたので、運動は華北ー帯に広がり、各地でキリスト教会が襲われ、外国人宣教師が殺されたり、鉄道が破壊されたりした。1900年には、北京でドイツ公使や日本の公使館書記生が殺害され、列国公使館が清国兵や民衆に包囲された。清国は列国に宣戦を布告した。日本は米・英・露・仏などの諸国とともに軍隊を派遣し、義和団の乱を鎖圧して外交官や居留民を救出した。翌1901年、北京議定書が調印され、清国は列国にばく大な賠償金を支払い、北京などに列国の守備兵をおくことを認めた。これが北清事変ほくしんじへん(義和団事件)である。

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62.アジア諸国の改革と民族運動

62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図
62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図 ©世界の歴史まっぷ

中国分割の危機と義和団事件

日清戦争の敗北は、中国の若い官僚・知識人層に危機感をつのらせた。彼らは日本の明治維新を範として、議会政治を基礎とする立憲制の樹立をめざした。公羊くよう学派の康有為こうゆういらによるこの改革を変法運動(戊戌の変法ぼじゅつのへんぽう)という。彼らは1898年に光緒帝を動かして政治改革を断行したが、改革に反対する西太后を中心とする保守派のクーデタにより、わずか100日余りで倒された。これを戊戌の政変という。

同じ頃、キリスト教の公認は各地で反キリスト教運動(仇教きゅうきょう運動)を激化させた。列強の侵略強化は、排外感情をいちだんと高め、1900年に山東省における義和団事件(義和団の乱)となって爆発した。民衆は「扶清滅洋ふしんめつよう」をとなえて、鉄道や教会を破壊し、北京に入城した。清朝の保守派はこの運動を利用し、各国に宣戦布告した。しかし、日本・ロシアを主力とする8カ国の連合軍は、在留外国人の保護を名目に北京を占領した。敗れた清は1901年北京議定書(辛丑和約しんちゅわやくに調印し、外国軍隊の北京駐屯などを認めた。

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