北畠顕家 きたばたけあきいえ( A.D.1318〜A.D.1338)
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。建武新政下、陸奥将軍府で義良親王を補佐。足利尊氏が後醍醐天皇に謀反すると奥州の軍勢を率いて上洛。尊氏を京から追い落とす。九州から尊氏が反転攻勢すると、和泉国石津の戦いで戦死、享年21歳。後醍醐天皇に痛烈な諫奏文を残している。政治に横槍を入れる奸臣たちへの批判、朝令暮改の非、倹約の必要性など、建武政権にかけた顕家の失意が伝わる。
北畠顕家
東北の騎馬軍と駆け抜けた若き将軍、決死の諫奏文
彗星ごとく現れた若き青年武将の栄光
武将としての北畠顕家の名を一気に高めたのは、足利尊氏との戦いの際に見せた鮮やかな戦いぶりである。
建武政権下、顕家は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国へと下向し、東国経営に努めた。これは坂東に勢力をもつ足利尊氏の牽制を狙ったものであるが、顕家の尽力の甲斐あって東北の経営は安定した。
天皇に背いた尊氏の軍勢が新田義貞を箱根で破って西上すると、顕家は奥州の騎馬兵を率いて鎌倉を占拠。義貞軍と挟撃して尊氏軍を苦しめた。
尊氏が京に乱入すると、尊氏の軍勢を九州ヘと敗走させ、その功により、鎮守府将軍となつた。このとき19歳。彼の短い生涯で、絶頂に達した瞬間であった。
だが後醍醐天皇の失政によって建武政権を取り巻く状況は悪化の一途を辿る。湊川では楠木正成が戦死し、新田義貞は北陸で苦戦している。ひとり顕家軍は奮戦し、美濃青野原では足利本隊を敗走させたが、勇戦もここまでだった。
顕家は後醍醐天皇に痛烈な諫奏文を残している。政治に横槍を入れる奸臣たちへの批判、朝令暮改の非、倹約の必要性……。
建武政権にかけた顕家の失意が伝わる。このとき顕家は死を覚悟していたのかもしれない。この諌奏の7日後、顕家は和泉国石津で敗死した。
謎の転進:再上洛を命じられた北畠顕家は当初、近江の新田義貞軍と合流するはずだった。しかし顕家はそれをせずに結局は敗死。『太平記』は義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったからと説明する。
武家社会の成長
室町幕府の成立
建武の新政
奥羽には義良親王(1328~68)が派遣され、北畠顕家(1318~38)が補佐をした。関東には成良親王(1326~44)が派遣され、足利直義(1306~52、高氏の弟)が補佐をした。これらは陸奥将軍府・鎌倉将軍府と呼ばれた。
1336(建武3)年、尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びた。九州は足利氏とは縁のない土地であったが、武士たちはつぎつぎに尊氏のもとにはせ参じた。勢いを盛り返した尊氏は、大軍を率いて東上し、摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧した。
南北朝の動乱
後醍醐天皇は1336(建武3)年末、京都を脱出して吉野にこもり、 自らが正統の天皇位にあることを主張した。京都の朝廷(北朝)に対して吉野にも朝廷(南朝)が出現したのであった。以後、約60年にわたり、両朝は抗争を続ける。この期間をとくに南北朝時代と呼ぶ。
ただし、南朝が真の意味で北朝と戦えたのは、 ごく短期間にすぎない。1338(延元3、暦応元)年、奥州から再び上京してきた北畠顕家が京都への進軍を阻止されて戦死し、ついで新田義貞が越前で勢力圏づくりに失敗して戦死すると、南朝は主要な戦力を失ってしまう。後醍醐天皇は失意のうちに吉野で死去し、以後は北畠親房(1293~ 1354)の主導のもとに、東北・関東・九州などに残った数少ない勢力圏を拠点として抵抗を続けた。